堀岡・海老江の郷愁風景

  富山県新湊市<漁村> 地図  <射水市>
 町並度 5 非俗化度 9
−かつての放生津潟を限る砂丘上に展開した街道集落的展開を見せる漁村群−

 







街道集落的に展開する堀岡の町並


 新湊付近の地形はかつて放生津潟という潟湖と海岸砂丘からなり、現代になって港湾地区として整備され、湾口が広げられ両岸は橋梁と渡船により往来する形になっている。
 堀岡地区は分断された砂丘の東側、現在は半島状の地形を呈しており西に新湊大橋を仰ぎ見る位置にある。港湾整備で放生津潟を浚渫した際に発生した土砂で半島は埋立てられ、発電所や工業団地、漁港が整備されており、元は細長い砂洲が「肉付け」されている。古くからの集落は海岸から離れたところに内封された格好だが、しかしその境界は明確に残り、古い街区は車一台通れるかの小路と直行する細い路地で構成され、家並が密集している。周囲の港湾風景とは画然と分れている。
 この付近は江戸時代から放生津潟の排水、干拓や土地の改良が続けられ、堀岡新村、堀岡又新村などが発足した。いずれの村も漁業が主な産業であり、一部廻船業も行われていた。この二村のほか4つの村が合併して明治22年に成立した堀岡村は昭和28年に新湊市に合併するまで存在した。
 堀岡地区を歩くと、土地は住宅群のある部分がわずかに高く、南側に向いて緩く傾斜している。砂丘の微高地に沿って家並が発達したのだろう。古くからの地形のままに集落が立地したことがわかる。家々の間口は狭くその割に奥行きは深い。漁村というには整然とした家並で、意外にも都市型と言ってもよい密集した姿だった。細い砂丘上なのでこのように街道集落的な展開になったのだろうが、この点も特殊なものといえるだろう。しかし実際にこの砂洲には神通川右岸に位置する北陸街道沿いの東岩瀬と放生津町とを結ぶ浜往来が縦貫していた。漁村と同時に街道町でもあった。
 
 

 
南北方向の路地 街道筋(奥側)に向け土地が高くなっている 


 堀岡地区の東に接する海老江地区も同様に街村的風景が展開する。浜往来の中継点に位置し、宿継場としての色彩もあったといわれ、漁業などの支障になることから近隣の下村から宿業務に携わる者が徴用された。天保4年の記録では210戸を有し、地引網等を中心とした漁業の他、魚の売買を行う商人や売薬商人も存在していた。
 町並的には堀岡地区ほど古い建物は見られず、連続性も低かったが隅切り部に洋風の構えを持つ建物など、印象的な風景も見られた。こちらは松林を通してすぐ富山湾が望まれ、今でも海に接する集落であった。
 




海老江の町並

訪問日:2023.07.15 TOP 町並INDEX