新城の郷愁風景

愛知県新城市<城下町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 8  −豊川の水運で栄えた城下町−







西新町の町並 
 
 
新城市は愛知県三河地方の東部、豊川を約20kmさかのぼった内陸部にある。右岸側の段丘状の土地に市街地が開け、付近を国道と飯田線が通り比較的利便性は良い。
 小規模な地方都市ではあるが深い歴史を刻んできた町で、中世末期には長篠城主であった奥平信昌はこの地に築城し、付近一帯を新城と命名した。関ヶ原の役後は一時幕府領となっていたが、慶安元(1648)年に菅沼氏が丹波亀山から入ってきて以降は版籍奉還まで当氏の所領であった。
 城下町としての発展は江戸後期に向けて拡大の一途を辿り、当初6000人余りであった城下の人口は末期頃にはその3倍を数えるほどに増加した。町中には信濃に通じる街道が引入れられていたこともあって人の往来も多く、町の繁栄につながったのだろう。製造や販売の特権を持つ商人も現れるようになり、かれらの存在は百姓や武士の存在をおびやかした。
 また豊川が水運として利用されたことも町の発展に貢献した。江戸後期の天保期には65人の船持が居り河岸が整備されていた。吉田(豊橋)城下との往来が主で、年貢米をはじめ茶、藍玉などが運ばれ、上り荷は塩や海産物、木綿などであった。信州の中馬や三州馬も物資の輸送に多用され、ここで陸送から水運に切替えられることが多かったのだという。そのことも商業の重積を見た要因だったのだろう。
 古い町並が残っているのは新城駅を基準とすると南に200mほどの幹線往来沿いで、これが旧信州街道だったのではと思われる。駅前付近は近代的な市街地の風景に更新されているものの、西より町並・西新町・東新町・平井地区にかけて断続的に町家建築が残っていた。特に町並では古い建物の密度が濃く、古い町並として連続性の高い箇所もある。この付近が城下の町人町の中心で、大柄な商家が集積していたのか。平入り・切妻の外観で、改修されていないものは二階部分の正面が出格子となっていたが、一部には虫籠窓も見られた。街路は何度も屈曲し、ここが城下町だったことを証明しているが、バス通りともなっているため、交通の妨げになっているに違いない。しかし探訪するものにとっては趣深いものとなる。
 二車線の主要道沿いで商業地でもあるため、このままだと早いうちに新しい建物に更新されてしまうことだろう。保存する価値も残されているので、何らかの対策を講じてもらいたいところだ。
 




町並の町並




町並の町並 平井の町並



東新町の町並


訪問日:2009.01.04 TOP 町並INDEX