塩名田・八幡宿の街道風景

長野県浅科村<宿場町> 地図(塩名田) 地図(八幡・百沢) <佐久市>
 
町並度 5 非俗化度 8 −難所千曲川の渡しを挟んだ中山道宿場町−
 



塩名田の町並


 
塩名田・八幡は旧中山道の宿場町で、東の岩村田宿より一里十町で塩名田、そこから二七町で八幡である。この辺りは各宿駅間の距離が短く、旧道を辿ると頻繁に旧宿場町に突当たる。大名行列等大通行の折には分宿も行われていたというから、それを睨んでのことと思われる。
 宿駅としての概要は、塩名田が本陣2、脇本陣1、旅籠9(天保年間)を有し、八幡は本陣1・脇本陣4、旅籠3を抱えていた。江戸期の通行量の増加は、宿場を密に設置しても人出は慢性的に不足で、助郷制度と呼ばれる近隣農村からの応援部隊で宿の業務をやり繰りしていた。この二ヶ宿の助郷は、延享3年(18世紀中盤)の時点で28ヶ村にも及んでいる。
 塩名田宿は千曲川の河岸段丘上に開け、西端でその崖を駆け下り千曲川本流を渡る。そのためここは川止めの際に大いに賑ったのだろう。町名も東から下宿・中宿を経ると、河原宿、渡川と続く。本陣二軒のうち一つは名残を留めていないが、新左衛門家(現丸山家)が残る。妻入り真壁造りの堂々とした姿を街道から少し控えた位置に残し、諏訪地方から松本盆地に見られる本棟造りとの著しい類似が感じられた。
 県道沿いにはその他に袖うだつを両脇に張り出させた旧家など、旧宿場町らしい姿を伝えていた。千曲川に近づいた位置で枡形となっていた中山道は県道と離れ、段丘下の低地に降りる。この辺りが旧河原宿で、崖下には往時から続く水場が残り、また出桁造りで2階に桟を設けた旧家など、千曲の渡しを控えた賑わいの残影が残っているようだ。この渡しは塩名田村、対岸の御馬寄村に課せられた重要な任務とされ、しかもこれが中山道中の難所といわれるほど洪水に悩まされ、架けた橋は度々流された。県道は段丘と段丘を結んで高々と橋で跨いでしまい、その苦労に思いを馳せるべくも無い。見下ろす川筋もそんな暴れ川とは想像もつかないおとなしい流れである。渡った先の御馬寄地区にも、段丘下の位置に古びた旅館など、古い町並が少し残っていた。往時は市が立ち商家も多かったという。
 


塩名田宿本陣だった新左衛門家(丸山家)

難所千曲川にかかる橋からは浅間連峰が望まれる。




八幡の町並 保存される本陣の門




百沢の町並 百沢に残る道祖神


 段丘上を登りながら少し進むとすぐ八幡宿だ。千曲川左岸の段丘は、浅間山の火山灰の影響か粘土地帯のため、「春三月氷解の時期から五・六月長雨時には人馬踏沼の如く足立兼」とあり、このため宿駅間の距離が短かったともいわれている。
 本陣跡は門だけが残り、往時を偲ばせる家々も所々に袖壁をしつらえた旧家が散在する程度で、中山道の面影は多くは残っていない。しかし当時の道幅が大型車も通る県道に耐え得るものであることは、この宿駅の繁栄を見るようだ。この先国道にも吸収され、旧街道の雰囲気は失われてしまうが、大きく街路が曲っていた部分にあった百沢という小さな集落だけは潰されずにそのまま残り、静かな家並を残していた。次の望月宿との間に控える瓜生坂を前にした間の宿的な役割もあったといわれる。




訪問日:2006.04.09 TOP 町並INDEX