塩田町は佐賀県の南西部、鹿島市の西隣にある内陸の町である。田園地帯と低い丘陵が混在しており、中心を塩田川が流れている。
地名は古代8世紀の書物に記されるほど古い歴史を持っていて、江戸に入ると長崎街道の宿駅、そして塩田川の水運を利用しての物資輸送などで商業町が形成され、現在の町の姿がほぼ整えられていた。
長崎街道は豊前小倉から長崎までを結ぶ旧街道で、この付近の街路は枝分かれし複雑だった。江戸中期までは嬉野や西彼杵を経由する西廻りと、鹿島や太良を通り有明海沿いを南下する道筋との追分であり、宿駅としての機能も高かった。地理的に有田にも近いことから、焼物などの産物がここに集積し、塩田川はその輸送に使われていたという。逆に天草方面からは陶石がここで陸揚げされていた。その一方で、塩田自らも焼物を生産し他国に輸出されていたという記録が残っている。「塩田石工」と呼ばれる石職人も台頭し、全国各地の寺社の仁王像などを手掛けている。
後期には佐賀から海沿いに竜王峠を経由する短絡ルートが開発され、塩田を通る往来は少なくなった。
ここは宿場町としてだけでなく、街道や水運を介した商業町として大きく発展してきたのだろう。その残照は今でも色濃い。
町の中心部、国道498号線から塩田川を挟んだ西側に残る旧道沿いは町並が保存され、一部の町家は訪問客を受入れる体勢が整えられている。路面はカラー舗装され、ガス灯風の街灯が設置され人工的な要素も多く加わっているが、素材はいいため全くの作られた町並というマイナスの印象は余り感じられない。その素材とは、間口の広い堂々とした妻入りの町家群である。特徴的なのが表向きは平入りの外観を通りに面させながら、それに向けて妻部をぶつけた建て方が多く見られたことだ。中には二つの妻壁を並べてぶつけた造りもあり、興味深かった。そしていずれも、白漆喰に塗込められていた。
この町並から北に500m離れた国道沿いにも、妻入り町家が連続した家並が残っている。ここは全く外向きにあしらわれることなく、自然な雰囲気の古い町並が連なっていた。 |
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