江戸時代の多くを幕府領として経過した当地は、慶長6(1606)年に周辺諸村を併せ草加宿が成立している。千住宿と越ケ谷宿に接し、その中間の伝馬宿に位置づけられた。当初は沼沢地の多いこの地域を避け、古利根川の自然堤防沿いを迂回していたのだが、埋め立て等の土木工事を経て越ケ谷宿までほぼ一直線の街道が整備された。
江戸末期の天保年間の記録では、本陣及び脇本陣の他、旅籠67を擁する本格的なものであった。この頃になると宿の総鎮守として建てられた神明神社を中心に定期的に市が開設され、周囲の村々に商圏を築き、大きく発達した。宿駅の南外れを横切る綾瀬川には河岸も設けられていて、上下流域と活発な物資の取引も行われていた。
東武鉄道と県道との間に旧日光街道が道筋を残している。商店の目立つこの通りは所々に街道を案内する立看板なども見られるが、古い町並としてはほとんど残っていなかった。わずかに出桁造りの町家建築や、土蔵などが見られる程度である。
都市部に飲み込まれた状態にあって、この状況は仕方ないことであろう。せめて残された伝統的な建物については、少しでも生きながらえてほしいものだ。
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