園部の郷愁風景

京都府園部町<城下町> 地図  <南丹市>
 町並度 5 非俗化度 7  −山陰道沿いに残る城下の商家群−


 

 一部道路拡幅された本町付近
 

 園部町は府のほぼ中央、丹波地方の南部に開ける町で、亀岡盆地の一部を占め肥沃な農村地帯が広がる。町名の起りも大和朝廷の荘園で飯米作りに携わった部(職業部)であったことが由来とも言われている。
 戦国時代この地はまさに動乱の渦に捲き込まれている。町域には園部城のほか、高山城、宍人城など10カ城を数え、支配地も入乱れしのぎを削っていた。しかし天正7(1579)年、明智光秀が丹波全土を攻略したことで、園部城も廃城となった。
 その後元和5(1619)年但馬出石から小出吉親が2万9千石で入部し、城下町の作成に着手した。城も再建され、園部藩も成立し政治の中枢としての歴史を歩み出している。町は園部川沿いに東西に走る山陰道を根幹として西から上本町・本町・新町が作られた。京都や篠山、そして若狭や但馬にも近い位置にあることから物資の往来が盛んで、多くの商家が立地している。町家の数は17世紀末の元禄期には既に400軒余りを数えていたという。また藩内の穀物・綿などの産物は藩が一括して買い上げ、京都の仲買人に売却し、その仲介料を藩の収入としていた。
 さらに山陰道の宿駅としての機能もあり、今の静かな町とは比較にならぬ繁栄ぶりだったのである。
 廃藩置県後、園部県の中心であった時期もあったが、京都府に編入されてからは次第に枢要度が低くなっていった。明治32年に鉄道が園部まで延びてきて、以後も延伸されると物資の集積地としての機能も薄らいだ。
 国道の一本北側の旧道沿いに町並が残っている。これが旧山陰道で、特に本町の東部から新町の西部にかけては、丹波独特の妻入商家が数軒連続して残っている箇所があり、町並らしい眺めを保っている。街道はその辺りで円弧を描いているのは、城下町造成時代に小出氏が園部川を迂回させ、川に沿って山陰道を取り込んだ名残だろう。
 

 

 上本町の町並  本町の町並
 

 

 今回20年振りに再訪したが、その間に本町の多くの区間で道路が拡幅されており様変わりしていた。ただ古い町並の印象としてはそれほど抜本的に失われていないというのが正直な感想であった。東側の新町にかけての円弧状の道筋と、上本町の一部では以前のままであり、比較的伝統的建物が保たれているからだろう。せめてこの部分は拡幅されず往時の面影を保持して頂きたいものである。 
 新町の町並
 



 
若松町の町並  


2023.10再訪問時撮影   旧ページ

訪問日:2003.10.05
2023.10.21再訪問
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