総領町は庄原市の南東側、吉備山地の北西部に開ける町で、現在は市域の一部となっているが以前は県下で最も人口の少ない町だった。 中世からここには田総荘と呼ばれた荘園が置かれたところで歴史は古い。江戸期になると毎月8の付く日に市が開かれ、近在の村々から人々が集まり、在郷町として地域の拠点的役割が増している。近くにある龍興寺の33年に一度のご開帳の折には、1ヶ月間に渡り芝居小屋なども出て大層な賑わいをしめしていた。 |
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下市の町並 | |
紙漉きや木材など地場産業も活発で、近代に入り国鉄福塩線が町から離れた所を通るなどして衰微するまで、地域の中心地としての役割が続いていた。 また、この町は石見の銀山と尾道とを結ぶ街道、通称銀山街道が通過し、稲草宿と呼ばれる宿駅も設置されていた。南に上下、北に庄原という天領地や大町場を控えていたものの、中継地として旅人の利用も多かった。町場は上市・下市の2つに大別され、下市の方が規模的にやや大きかった。文政2(1819)の記録では、家数は下市95軒に対し上市は29軒であった。 下市地区には現在も街村的に一本道に沿いかつての面影が見られた。軒の揃った2階屋の連なる家並は、街道集落らしい統一された町並という感がする。一部は袖壁や海鼠壁、出格子といった伝統的な意匠も見られ、古い町並としての体裁を保っていた。 一方、東に1kmほど隔てた上市地区は、現在はメイン道路からは外れた川に向かう道筋に町並の連なりがあった。伝統的な親柱を持つ橋梁が残されており、昭和六年との橋名板が見える。古くからの道筋だったのだろう。一部空地を挟んだ状態とはいえ、伝統的な造りの建物が断続的に残っていた。中でも橋のたもとに見られる大柄な商家風の建物は、見応えある集落風景を形成していた。 幹線国道から外れたこの町は現在は寂れた風情であるが、二つの市のつく地名があったことからかつての賑わいは大層なものであっただろう。 |
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上市の町並 | |
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上市の町並 |
訪問日:2005.08.07 2018.05.30 |
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