墨俣の郷愁風景

岐阜県墨俣町【宿場町】 地図 <大垣市>
 
町並度  5 非俗化度 8  
−中世は軍事上の拠点 江戸期には長良川の渡しを控えた美濃路の宿駅−


 墨俣は長良川下流の右岸に接し、区域は自然堤防と後背湿地で占められ、非常に低湿な土地となっている。古くから水害が繰返され、長良川・木曽川の流路もこの付近で度々変わっている。
 古代よりこの地から川を渡って尾張に入る官道があった。この墨俣の渡しのおかげで、ここに休泊する要人も多く、交通の上での重要性は旧街道が整備される以前から高かったといわれる。




墨俣の町並


 
 また中世には軍事的拠点ともなった。墨俣城は、永禄9(1566)年に織田信長が豊臣秀吉に命じて建設されたとされる城で、その建設期間の短さから一夜城とも呼ばれる。信長が京に上るための足がかりとするために築かれたといわれるが、その詳細な歴史は定かではない。現在、城跡には大垣城の天守を模した資料館が造られている。
 その資料館より長良川に流れ下る川一つ隔てた南側が古くからの墨俣の町である。江戸時代になると美濃路が通り、その宿場町が発達したところだ。西には大垣城下に設けられた大垣宿、東は長良川を挟んで起宿に接する。美濃路は大名の通行も多く、主要街道並の設備が必要で本陣と脇本陣が具備される本格的なもので、問屋場2箇所、長良川の堤には茶屋があり、長良川の渡しは武士と僧侶以外は有料、徳川家康上洛や朝鮮通信使通行の折には橋が架けられた。
 町並は旧美濃路に主に見られ、切妻の平入り旧家が一部連続性を保っている箇所がある。その中心は旧脇本陣付近で、濃尾地震(明治24年)後に再興された姿を今に残す。特徴的なのは隣家との隙間をほぼゼロタッチにした一見長屋風の町家建築が見られることで、それらの一部には料理屋とおぼしき面影が外観から感じられた。この付近、一時遊興街として発達していた時期があったとされ、その詳細はここでは省略するが、一部にはその名残をとどめる意匠を持つ建物も眼にした。
 






旧脇本陣付近






墨俣の歴史を紹介する資料館(大垣城の天守閣を模したものであり、墨俣城をイメージしたものではない)

訪問日:2013.08.12 TOP 町並INDEX