須坂の郷愁風景

長野県須坂市<産業町・商業都市> 地図(中町交差点を示す)
 
町並度 7 非俗化度 4 −製糸業で財をなした重厚な商家群−






中町交差点より北の旧大笹街道の町並 中町交差点の東・旧谷街道(新町)の町並
 
 
 長野盆地東部の地方都市須坂は長野市内と私鉄で結ばれ、通勤客も多い。しかし藩政期から昭和初期までは商圏の中枢であり、町を歩くとその家並からもその陰翳を映す。
 江戸期には堀直重がこの地を領有して須坂藩が成立し、陣屋も設けられていたという。「須高地方」と呼ばれたこの一帯の中心であった。
 江戸期にはここで、松代往還(屋代宿
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現更埴市から松代城下を経て、千曲川の渡しで長野に至る街道)、大笹街道(上野国に達し江戸に至る街道)、谷街道(飯山から中野・小布施などを経て松代城下に至る地域の物資移動の主要道)が一手に交差していた。大笹街道は北国街道の脇街道的な役割を果し物資交流に重要な役割を果していた。このような交通の要に商業が成立したのは自然のことだろう。
 その商業の核は養蚕業・製糸業であった。盆地東端の扇状地に位置している須坂は水に乏しく、農地も水田より桑畑などが卓越していて、製糸業の素地となる養蚕は盛んだった。善光寺経由の北国街道が犀川の川止めで足止めされた際にはこの脇往還に頼らざるを得なくなり、千曲川(信濃川)に通船が許可され川港として発展した。このことも商工業の発展をより推進させることになる。
 藩の管理の下上層商人による町づくりが行われた。製糸業が本格的に栄えるのは幕末になってからで、それ以前にも酒造・煙草・油商などが大きく台頭していたので、市が定期的に立って近隣の町村を含めた経済の中心となっていった。
 往還の交差する要付近を中心に、今でも古い町並が広範囲に渡って残っている。「要」は大笹街道と谷街道が交わる現在の中町交差点で、主な町並はここから十字状に連なる。家々を見ると、いずれも漆喰に厚く塗込められた土蔵造りである。土蔵造りは大火の教訓を得て造られる場合が多いのだが、一角にある造り酒屋の奥さんにその成立ちを聞いてみると、全ては明治初期を頂点にした商人たちが競うように建てたものとのことであった。ここは純粋な豪商による蔵作りの町並なのである。旗本知行地から発展したたった一万石の小藩に、重厚な町並が発展した、これはやはり交通の要衝であったことが大きい。
 真骨頂は穀町にある田中本家(公開)だろう。代々須坂藩の御用達を勤め、後に名字帯刀を許される大地主となって、幕末には士分格となり藩本体をも上回る財力を保有していた。邸内部は今でも、一つの名園とも言うべき風格を漂わせている。






 旧大笹街道の町並。この周辺が商業の中心として栄えたいた所なのでしょう。 旧谷街道沿いの町並






大笹街道沿い穀町の造り酒屋 製糸業の豪商田中本家の中庭



 須坂市は町並の保存活動に熱心であり、「信州須坂町並みの会」が1986年に発足し、中町の店蔵の改装を行ったり、外部の訪問客に対して、町並・町家に接してもらう試みを多く実践してきた。毎年五月下旬には「町並みフェスト」を行い、中心部の主要な歴史的住宅約40戸が無料で敷地を開放している。
 そのため町並はある程度現代の手が加えられた状態となっており、外部を意識したものとなっている面もあるが、このような地場の積極的な取組みを評価したい。
 


 
(※「信州須坂町並みの会」の活動等については、西村幸夫編「町並み まちづくり物語」-古今書院-に詳述されている)
 谷街道沿いにある味噌商の蔵。ここでは今でも機械
を使わず江戸期以来の手作業で醸造が行われており、
この蔵の中が作業場に成っています。店舗に申し込
めば見学させてもらえます。
訪問日:2004.05.29 TOP 町並INDEX