田部の郷愁風景

山口県菊川町<宿場町・商業町> 地図 <下関市>
 町並度 5 非俗化度 10  −赤間関街道北道筋の宿駅−
 


 菊川町田部は下関市の北東部、瀬戸内海に注ぐ木屋川と田部川の合流点に開けた小盆地に町が開けている。その下流には山陽道の宿場であった吉田があり、そこより北進し萩城下へ向う赤間関街道沿いに位置していた。
田部の町並








 

 
この盆地は「小日本」と呼ばれるほど広い耕地を持ち、町場が成立する下地があった。もっとも小日本と呼ばれたのは、昔子供が親に連れられて山間から出てきた際、この盆地の広さに「ここが日本か」と驚くと、母親が「日本はこの10倍も広い」と教えたという小話によるのだそうだ。
 江戸初期の検地帳には市屋数32軒とあり、家々の半数以上は何らかの商いを行っていた。萩が一大城下町として整備されると、赤間関街道は萩と長府、そして港町赤間関
(現在の下関)を結ぶ主要な街道とされ、この田部には宿駅が置かれた。ささやかな農村にすぎなかったこの田部も、要人の休泊する地となり近隣の物資も集結した。商業としては酢醤油商、酒造、売薬、木挽などがあった。
 江戸も末期になると赤間関が港としての機能を増すことによって近隣の農村からの人口流出が続き、商業町よりも宿場町としての機能の割合が大きくなったものと思われる。
 明治前半までは田部村という独立した自治体だったが、その後豊東村に吸収され、さらに菊川町、そしてとうとう先頃下関市にまで吸収されてしまい、藩士が続々と往来した頃の面影は偲ぶべくも無い。しかし旧街道は主要道路としてそのまま使われることが無かったため、昔日の色を残していた。古色蒼然とした妻入の旧家や、かつての庄屋屋敷の門など、古い町並としての体裁を保っていた。妻入平入の比率はほぼ半々で、屋根瓦も山陰から長門地方にかけて分布している石州系の赤瓦が目立つ。一般的な山陽地方の町並とはやはり少し趣の異なる町並であった。



訪問日:2006.03.19 TOP 町並INDEX