忠海の郷愁風景

広島県竹原市<港町> 地図
 町並度 6 非俗化度 10 −各地と交易を行っていた古い港町−

忠海中町の町並


 
忠海中町の町並

 忠海は竹原市の最東部、東は三原市に接し、瀬戸内海に面した町である。現在は幹線交通網から外れ、海沿いの小さな町にしか映じないが、戦前そして明治以前にははるかに存在価値の大きな町であった。
 中世から港町として家々が集積し、海上輸送とそれにともなう商業で富をなした者が多かった。


 江戸期には長距離航路が沖乗りという短絡路を経由するようになり、やや役割は淡くなったが、以降も港としての機能は失うことなく残り、酒造業・塩商・味噌醤油商や木綿、煙草などを商う家々も数多く、上方をはじめ瀬戸内地域や九州、尾張、遠くは越後や出羽とも交易を行っていたという。
 遊女屋も存在し、合計25人の遊女が存在していたという記録も残っている。
 また、江戸後期は広島藩領であったが、享保期(18世紀前半)に三次藩が廃絶されるまでは同藩領で、藩の管理により奉行や役人がさだめられ、藩の外港として藩主の船乗場も整備された。広島藩時代になっても御蔵や炭蔵などが置かれていた。
 明治時代でも問屋10軒、仲買11軒を数え多くの商船の出入りが記録されている。その後砲台の設置や沖に浮ぶ大久野島への毒ガス工場の設置など次第に周囲の瀬戸内沿岸を含め軍事的色合いを濃くし、鉄道の開通に伴って港町としての機能は急速に薄れていった。
 現在でも乏しい平地には家々が密集し、町は想像以上の広がりを見せている。忠海駅前から北へやや大きな通りが伸びている以外は大半が東西に走る路地で、家並は海岸線に沿って東西に幾筋も発達していったことが想像できる。そしてそれら東西の筋のあちこちには、虫籠窓を残す町家や袖壁を従えた民家などが、新しい建物と程よい調和を図りながら残っていた。中二階のものは少ないことから古いものでも明治以後の建物が大半であると思われるが、古い町並らしい出で立ちは町のあちこちに見られ、一箇所に連続しているのではなく散在的に小さく固まっていることもあり町並歩きの楽しさがある。
 近くに重要伝統的建造物群保存地区である竹原の町並を控えて、この忠海は全く町並としての保存活動がなされていないように見受けられる。その価値のある町と思うが、このままでは他の多くの古い港町同様、風化して新興住宅地と全く変らぬ姿になってしまうように感じられた。




忠海中町の町並




忠海中町の町並

訪問日:2006.02.02 TOP 町並INDEX