備中高梁の郷愁風景
岡山県高梁市<城下町> 地図 町並度 6 非俗化度 3 −武家街・商人街が明確に残る山城の城下町− |
本町通界隈の町並 伝統的な商家建築が残っている | |
高梁市は県域の中央部やや西寄り、旧備中国のほぼ中央にある。眼前に滔々と流れる高梁川、そして背後に突兀と聳え立つ山々は戦略的な要害の地として古くから着目され、山城として名高い松山城が秋葉重信により仁治元(1240)に建立されたのもうなづける。 後に14世紀、高橋宗康が備中国守護として入城し、守護代として麓の村を整備した。これが城下町の始まりと言われる。ただし、他の多くの城下町に見られるように、本丸を中心に同心円的に広がるものとは異なり、地形に制約されて城に近い山裾より二の丸・三の丸と続き、町割は櫛形をなしている。現在この地区には土塀が今でも連続して残り、武家屋敷も現存し一部が資料館として紹介されている。付近には枯山水の庭園が見事な頼久寺もあり、市内随一の観光名所となっている。また、城の外堀ともいえる紺屋川地区は美観地区として桜並木となっており、これらの地区を中心として訪問客も多い。 高梁川はまた、交通路として重要な役割を果たしてきた。上流に鉄を産出する山々に恵まれ、沿岸部からは塩や魚介類、さらに大坂方面からの物資の取引もこの川を往来する高瀬舟によって行われた。城下の整備に伴い新田開発、船着場も整備され、物資が必ずここを中継地としたため、川沿いの本町界隈は問屋や豪商の屋敷が続々と建ち並んだ。それらの一部は今でも残り、武家屋敷街とは対照的な町家の連なる町並が見られる。これは大正期に開通した鉄道の駅が市街地の南端に設置され、駅周辺に新しい商業地が形成されたため旧市街が温存されたことが幸運であった。 本町通りの商業地区の伝統的な家々は、多くが切妻の平入であるが、明治期以降の建築らしい総二階建の商家は入母屋となっているものが多い。瓦は見た所全て桟瓦葺きであったが、袖壁や虫籠窓は一部の旧家で見られた。但し、町家が連続している景観が際立っているというほどではなく、それらも多くが観光客の眼を意識し格子などが新しく付け替えられている。また最近になり、市内には相次いで大学が誘致されたため、学生マンションなどが新築され、一部で画像のように町家の並ぶ上にマンションが聳える雑然とした町並景観となっている。 |
本町の一角にある池上邸は江戸期より小間物屋を営みながら高梁川水運の船主、両替商なども行い、明治期には醤油醸造販売に携わった豪商。敷地の奥の醤油工場が復元公開されている。また紺屋川沿いにある高梁基督教会は明治22年に建築された岡山県内ではもっとも古い教会堂。明治37年建築の旧高梁尋常高等小学校(現在、郷土資料館として公開)などの姿から、この地が近代文化の一大中枢でもあったということがわかる。 |
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池上邸(公開) | |
石火矢町の町並 |
訪問日:2003.04.12 2012.02.05再取材 |
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