高遠の郷愁風景

長野県高遠町【城下町】 地図 <伊那市>
 
町並度 5 非俗化度 6 −諏訪地方との結節点にあった旧城下町−






高遠の町並 台地上に商家建築が連なっている
 

 高遠町は伊那盆地の北部、天竜川本流を少し内陸に入った位置にあり、竜東と呼ばれる天竜川の東岸部では随一の町の展開を見せている。
 北は諏訪地方に接し、金沢街道杖突峠の往来も多かった。伊那街道の伊那部宿を発したこの街道は茅野とを結び、高遠が中馬の一大拠点となり荷の輸送を司っていた。
 また高遠城は西と南を断崖に囲まれた自然の地形を巧みに利用して建設され、古くから諏訪氏の勢力圏にあったが、南北朝期からはその支族である高遠氏が支配していた。200年ほど続いたが武田信玄の信州侵入により取って代わられている。武田氏の滅亡後は関ヶ原の役を経て保科氏、その後数氏が入城しているが、元禄4(1691)年からは内藤氏が廃藩まで永きにわたって城主をつとめた。
 城下町は当初城の東に建設されたとされるが、その後城山の西に展開する段丘上に発達している。これは諏訪と伊那を結ぶ街道沿いということもあったのだろう、商家が集積し町場としての発展を見た。町方十町とよばれたその中心は宿駅機能も有していたこともあり、問屋は本陣を兼ねていた。
 そのような繁栄は明治中期までは続いていた。廃藩置県後も旧藩士が次々と高遠を離れていったが、商業の盛んだった町の基盤もあって製糸工業など近代産業が立地し、一時は工場6社、300人の女工を抱えた。しかし後期になって国鉄中央本線、さらに現在の飯田線の前身である伊那電気鉄道が天竜川対岸の伊那町までのびてくると、地域の中心はそちらに移行し高遠の地位は急激に低下していった。
 しかし町を歩く限りは衰退し寂れた町の風情ではない。積極的に修景が行われた町の中心は伝統的な構えを残しながらも、最近になって整備された古い町並風にあしらわれた建物群であるやに感じられる。しかしその基盤はしっかりしていて、テーマパーク的な人工色がそれほど気にならないのは、やはり歴史の重みがあるからだろう。横路地には土蔵の織りなす魅力的な一角があり、また一部では手つかずの商家もあり古い町並としての格式は感じられる。
 高遠城址は桜の名所として名高い。訪ねたのは盛夏を迎える時期、葉桜が木蔭をつくり、訪れる人はまばらであったが、一角には大正時代に建てられた高遠閣が威容を現している。訪ねる観光客のために建設された施設で、この存在だけでも当時の高遠の格式高さを知ることができる。
 




町内に残る最も古い商家(池上家)






 
高遠城址内にある高遠閣
訪問日:2011.07.18 TOP 町並INDEX