高取の郷愁風景

奈良県高取町<城下町> 地図
 
町並度 7 非俗化度 5  −城下町との比高では最も高い位置にある山城−






 近畿日本鉄道の壷坂山駅前から、国道を跨いで間もなく古びた家並の連なる一本道に出る。この道筋に沿って古い町並が1km以上にわたって続く。この道は土佐街道とも称され、緩やかな上り坂を進むに従って商業町から城下の武家町的な雰囲気を濃くしていく。壷坂寺への参道が分岐する「札の辻」辺りから先には旧武家屋敷だった建物も幾つか残っている。代表的なものが田塩家と植村家で、殊に植村家は家老を勤めた家柄であり漆喰に塗り込められた長屋門が厳かに保存されていた。
 札の辻より里側は商家町の顔である。江戸期に遡ると思われる厨子2階という中二階建てが多くを占め、間口の狭いもの広いものと様々な表情を見せる。多くは虫籠窓を備え、その形も様々で面白い。中でも眼を引かれたのは、玄関先などに馬をつないで置くための「駒つなぎ」の鉄輪が多く残っていることであった。


 旧壷坂道沿いの町並  
  
 
奈良盆地が尽きようとする平野の南端にあるこの高取町を有名にしているのが町の南東にある高取山の頂上の城跡で、この高取城は確認されているものとしては麓(町場)から城までの標高差が全国で最も高いという。
 中世は地元の豪族越智氏が支配した山城で、天正13年(1585年)に大和郡山城主であり秀吉の弟であった豊臣秀長の家臣・本多利久が1万五千石で城主となったが17世紀前半に断絶した。以後植村氏が幕末まで支配している。
 この高低差を「通勤」する藩主や家臣は大変だったろう。山上の城での生活の不便さから次第に山麓の下小島村に屋敷が移され、城下町が発展している。加えてこの地区は吉野や壷坂寺へ向う街道にもあたり、通行人も多かったことから商業が栄えた。中でも盆地一円で盛んだった製薬・売薬業はここがその中心で、廃藩置県後、旧藩士が売薬業に進出する例も多く一層の発展をみた。 
 古い町並は札の辻で分かれる壷坂道沿い、更にその脇道沿いにも残り、裕福な町場であったことを裏付けている。江戸から明治にかけて長谷寺や吉野などと並び称された大和の名所で、この街道も参詣客で賑わいが絶えなかったのであろう。
 旧土佐街道の町並ではカラー舗装になっていて、町並の雰囲気を人工的に演出しようという意図が見受けられるが、それに比べ家々は大掛りな補修はなされていないようで、数軒の訪問者を受け入れる施設を除いてはほぼ自然体の町並が展開している。電柱が地中埋設化されていないところも逆にいい雰囲気である。
 再訪時の今回は、これまでには見られなかった城跡の観光客及び町並探訪客を迎え入れる施設が二・三見られた。但しそれらは訪問者におもねるような色も淡く、好感が持てるものであった。


 


 
 

 

 

 

 旧土佐街道沿いの町並 

2020.09.再訪問時撮影       旧ページ

訪問日:2004.07.18
2020.09.20再訪問
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