建部の郷愁風景

岡山県建部町<陣屋町> 地図  <岡山市北区>
 
町並度 6 非俗化度 9
 −わずか一筋ながら高い町家の質と連続性−

 



 
 高い質感の商家建築の連なる建部の町並


 旭川流域に開ける建部町は、流れを挟んで西側の建部(建部新町)、東側の福渡の二つで主な市街地が形成され、藩政期建部は岡山藩家老・池田氏の陣屋町であり、福渡は備前と美作を結んでいた津山往来の宿駅であったところである。ここでは建部に残る古い町並を紹介したい。
 当時の津山往来は建部の地を出外れたところで旭川を舟で東岸に移り、福渡の宿に至っていた。美作との国境にある福渡には番所が設けられ、商業も繁栄を見た。ここ建部は、旭川流域の中で備前北部の重要な政治拠点として位置づけられていた。寛永9(1632)に池田光政が鳥取から岡山に移封されると、ここに陣屋を構え町を形成した。陣屋跡をはじめとする遺構は残っていないが、津山往来に沿って形作られた商人町である建部新町の町並は、現在もなおわずかに面影を伝えている。
 ここでは年貢を免除され自由に商業を行える基盤があり、酒造・醤油醸造業、呉服屋、油商、米問屋などがあり、街道の馬継場ともなっていた。しかし明治維新を迎え池田氏は岡山市内へ転じて、建部新町の保護の制度も終り、逆に明治18年には県道の工事のために陣屋の周囲の堀を壊し、石材を取去ったという。商家も次第に減少し、昭和に入ってからは大掛りな河川改修で大半が姿を消した。
 今では町並とはいってもわずか100メートルほど、しかも街路の片側にしか家並は残っていない。家々の連なる反対側の裏手はすぐに旭川の川堤で、往時は渡しも四箇所あったようであるが、今は草叢の広がる荒地があるだけである。
 しかしこの町家群、なかなか見応えのある旧家が連なっている。それは全て漆喰に塗回された塗屋造りであることや、一階部分も多くはサッシやシャッターに改造されず、旧来の姿を保っているからだろう。出格子をはめ、中には床机が残っている家もあり商売を営んでいた家であっただろうことが想像できる。二階はこの地方で標準的である、海鼠壁を張り巡らし、虫籠窓、または出格子という姿で、瓦は年季の入った本瓦であった。細部は各家で異なるも多くの意匠は共通している。中庭を通りに面して主屋の側面に設け、本瓦を葺いた重厚な門が取付けられている旧家もあった。
 ここに掲載したのは再訪時の画像だが、前回から20年近くにもなるのに印象はほとんど変わっていなかった。それは地元の方々が強く意識され建物を維持してきたからにほかならぬことだろう。敬意を表したい再訪の町並であった。
 
 

 

 



 

2022.04再訪問時撮影   旧ページ
訪問日:2003.11.23
2022.04.30再訪問
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