田の口の郷愁風景

岡山県倉敷市<港町・門前町> 地図
 町並度 5 非俗化度 9 −瑜伽山詣での表玄関−

       
 田の口は瀬戸大橋のたもとの町児島の東側に開けている小さな町である。現在は倉敷市に編入され知る人も少ないが、かつて庶民の一大信仰中心であった由加山、瑜伽(ゆが)大権現への最寄港として大変賑わったという。右は港寄りにある大きな道標である。その規模だけからも当時の賑わいは想像がつくものである。  


 参道は由加山にむけ緩やかに上っています。入母屋の屋根を持ち土蔵を何棟も従えた造り酒屋がありました。道幅も昔のままのようで、所々、旅人を導いた小さな道標がそのまま残っていました。




 

 古くは田の口の津と呼ばれた歴史の深い港町である。17世紀後半になると讃岐の金毘羅宮と連鎖した参詣客を迎え入れる港として一層の発展を示した。讃岐側の丸亀・多度津とを結ぶ備前側の港は下津井、日比などであったが、由加山に最も近いこの田の口が表玄関であった。
 当時は参詣行脚が一つのブームともいえる時期があり、一例を挙げると名古屋の豪商菱屋平七は享和元年(1801)、大坂から船で丸亀へ渡って金毘羅参り、その後下津井へ出て、一泊後田の口に船を回して船頭の案内で瑜伽に参詣、その後宮島へと向かっている(平七の旅日記「筑紫紀行」)。また、ある幕末の志士は、宮島に参拝する途中岡山城下に一泊、吉備津で遊んだあと瑜伽詣でをし、丸亀に渡った。瀬戸内地域は豪遊ルートでもあったのだ。
 天保13年には村内に船宿船持34人、新船持15人であり、それまで四国航路の渡海業を独占していた下村を凌駕している。街道沿いには今でも「へんろ道」などと彫られた小さな道標が多く残っており、付近の家並も造り酒屋や宿屋であったらしいつくりの建物も見られ、港から山裾にぶつかる約1キロほどの間に、古い町並として残っている。本瓦を葺いた入母屋造りの家屋が多く見られることからも、参詣客により潤っていたことが偲ばれる。
 由加山土産として始まった真田紐の製造が地場産業となり、その後袴地などの織物へと発展した。藩は帯地、袴地を専売制にし、田の口港は原料の入荷、そして他国の商船が購入しに来るほどにもなったが、明治中期になると参詣の足が遠のくのと同時にそれらも衰退し、田の口の繁栄時代は終わった。
 児島と宇野を結ぶ幹線道路は一本西側に通されたために、当時の面影が多く残されている。一本の細い参詣道沿いに細長く続く町並を歩いて当時の参拝客の気分になってみるのも面白かろう。
 
 



訪問日:2003.02.23 TOP 町並INDEX