垂井宿の街道風景

岐阜県垂井町<宿場町> 地図 
 
町並度 5 非俗化度 6 −美濃路を分ける中山道の宿場町−
 

   
旧垂井宿の町並
 
 
 垂井は濃尾平野の西端に位置し、これより西に向うと関ヶ原を経て旧近江国(滋賀県)となる。
 現在の垂井駅の北側、東西に流れる相川の右岸に中山道が道筋をよく残している。東端で難所の相川の渡しがあった。暴れ川として知られ、享保8(1835)年の記録では「乳切水一人四五文、腰切水一人二四文、膝下切水一人八文」などとなっていて、当時は橋がなく人力で板の上に旅人を載せて通行しており、水量によって渡し賃が定められていたことがわかる。
 相川橋の袂に「右東海道大垣道 左木曾街道たにぐみみち」という石柱が立っていて、ここから東海道へのバイパスである美濃路が分れていた。川が増水すれば足止めにもなったろうし、街道を分岐する要所でもあったことからこの宿は随分賑わいを見せていたことが想像できる。
 宿駅の町並は東隣の赤坂宿(大垣市)より一里十二町、西の関ヶ原宿より一里十四町の位置にあって、本陣・脇本陣それぞれ一箇所を有していた。東から東町・中町・西町と連なり、東町の枡形の位置には安永7(1778)年に建てられた旅籠「亀丸屋」が残る。そこから長い直線が続き、宿駅としては見通しがよい方だ。左手に南宮神社の大鳥居のある付近は袖壁や格子など町家の特徴ある家並が残っていて、かつての宿駅を思わせてくれる。この大鳥居のすぐそばに脇本陣があったそうだが、本陣もろとも現在は全く跡形もなくなっているのは惜しまれる。
 明治以後、国鉄東海道本線の開通で街道の役割は薄れ、その後国道、そして東海道新幹線が整備されかつての中山道はまったく機能することがなくなった。しかしこの町は中山道を意識した町づくりに積極的なようで、幾つかの旧家には説明書き付の木製看板が立てられ、「ここは中山道」という標識も街路の随所に設けられている。商店に建替えられているものが多く、連続性は乏しくなっているし、残った古い町家も一階がサッシ等に改修されて必ずしも保存状態は高いとは言えない。しかしこうした取組は大切に続けていって頂きたいものである。

 
 




旧垂井宿の町並 旧垂井宿の町並(現在も旅館として営業されている旧旅籠の亀丸屋)




旧垂井宿の町並
 

 
※画像は全て2005年4月再訪問時撮影のものです。

 
訪問日:1999.01.07
(2005.04.16再取材)
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