鳥羽の郷愁風景

三重県鳥羽市<城下町・港町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 5  −海に向って聳える城が象徴だった志摩の中心地−



 鳥羽市は志摩半島東端にあり志摩地区の玄関口を占めている。水族館をはじめとする娯楽施設や大口の客も多く宿泊するホテルや旅館も多く、観光客で常時にぎわっている町である。
 一方で、海岸部を中心とした観光地的な風情とは一線を画した歴史を感じさせる町並も展開している。
鳥羽二丁目の町並


 中世には九鬼水軍の拠点として、江戸時代に入ると城下町として一層発展を見た。関ヶ原の役で西軍についてしまった九鬼嘉隆は自刃したが、守隆が56,000石を領有し鳥羽藩が成立した。城地は海に向って立てられ、町人地とも海水面で隔てられ濠の役割をしていたという。18世紀前半の宝永期の記録では既に城下に900軒余りの戸数を抱えていた。
 藩主は頻繁に後退し、下総や常陸、肥前など遠方からの大名の移封も少なくなかったが、後半になると下野烏山から移った稲垣氏による150年余りに渡る安定した統治のあと廃藩置県を迎えた。
 また、鳥羽の地名の由来は「泊浦」であるとされ、海岸線の出入りが大きく沖に島々を控えた海は静穏で風待ち港として優れ、上方と江戸とを結ぶ商船もしばしばここに寄港した。遠州灘と熊野灘は航行上難所として有名で、その間に位置していた事も幸いした。多いときには一度に500隻もの千石船がここに碇を下したという。
 町の発展は城下町としてだけではなく、このように港町としての繁栄も大きかった。むしろ今残る旧市街は、後者を基盤としているといっても良いかもしれない。それを象徴するのが「待合 津の国」との木札のある建物だろう。貴重な遊郭建築で、廃屋寸前であったものを市が買い取って整備しているのだとか。何でも江戸時代の鳥羽は先にも記したように風待ちの船員で大いに賑わったので、必然的に彼らを歓待する料理屋や置屋なども発達した。「はしりがね」と呼ばれる女たちが接待したというのだが、この建物はその歴史をとどめるに余りあるものがある。
 この付近を中心として、付近には伝統的な建物が断続的に残っている。一階部は今は開放的なガラスの引戸になっているものが多いのは店舗だっただろう。二階部分に木製欄干を残す家が目立つのも、やはり繁華街として大いに賑わった歴史を感じさせる。
 町並を南に向ってずっと歩いていくと、その南端付近に目新しい外観のしかし伝統的な形式の商家風建築がある。かつて大庄屋を勤めた旧広野家住宅で、内部が公開されている。明治に入っても資産家として財を積み上げた家で、ステンドグラス風の色ガラスなど当時の最先端を行く意匠も垣間見られ、一見の価値のある旧家だ。
 




鳥羽一丁目の町並 鳥羽二丁目の町並




鳥羽三丁目の町並




鳥羽三丁目の町並

訪問日:2016.06.04 TOP 町並INDEX