栃木の郷愁風景

栃木県栃木市<商業都市> 地図 (嘉右衛門町付近を示す)
 
町並度 6 非俗化度 3
 −水陸双方の拠点として商業が発展−
 





例幣使街道沿い(万町)の町並
 
 北関東では町並として最も知名度の高い栃木市は県の南部、小山市の西に存在する。栃木を名乗りながらここは県庁所在地ではない。廃藩置県後、北側の宇都宮県と合併し新生栃木県となった際にはまだここに置かれていたが、宇都宮が県央にあることなどから明治17年に県名はそのままに移転され今に至っている。現在では小都市に過ぎないが、古い歴史と風格は風化せず色濃く町に息づいている。
 




 巴波川沿いの風景。大谷石の蔵が独特の風合いを醸しています(横山家)。  川沿いには物資の往来が盛んだった頃の面影が濃く残っています。




例幣使街道沿い(嘉右衛門町)の町並 嘉右衛門町の岡田家
 

 栃木の都市計画は天正年間(16世紀後半)に栃木城が築かれた頃に遡り、短冊形の屋敷割や寺社の移転などが行われている。しかし城主皆川広照はしばらく後信州に去ってしまったので、城下町としての期間は非常に短く、その後は市街地を流れる巴波川の水運を生かした物資の集散地として発展していった。
 今でもこの川岸を辿ると舟運の拠点らしい佇まいが多く残っている。黒い板塀が延々と連なるのは回漕問屋を営んでいた塚田家(塚田記念館として公開)、少し上流に向うと麻問屋と銀行を兼務していたという横山家(公開)がある。この横山家は切妻平入りの主屋の左右に土蔵を従えた独特の「両袖切妻造り」と呼ばれる構えである。鉄格子がはめられた扉があり、すりガラスに「共立銀行」と記されていた。この巴波川沿いは柳が植えられた風情ある散歩道であり、その景観が類似していることから栃木市は関東の倉敷とも呼ばれる。
 栃木の町の繁栄は日光との密接な関連があった。水運の拠点となったのは日光社参の御用荷物が契機とされており、江戸から利根川、高瀬舟に積み替えながら渡良瀬川を経て、栃木がその遡行終点であった。さらに近隣の物資がいっせいにここで舟に積替えることもあり、商業の中心としての役割を強めていった。
 陸路の面でも日光例幣使街道の重要な拠点となっていた。例幣使街道とは江戸期に京都から日光東照宮へ向う勅使が通った道という意味で、中山道を辿り上州倉賀野宿で分れて日光に達していた。栃木は街道沿いの宿駅のひとつであった。
 この例幣使街道沿いにも古い町並が残る。中心街の大通りではビル建築に挟まれながらも商家が点在し、しかもその多くが今でも営業を継続している。厚い壁に覆われた黒い蔵造りが多い。幕末の水戸浪士による「天狗騒動」による大火を教訓とし防火対策として蔵造りで建替えられたからで、蔵の街と呼ばれている。栃木の町並の中心であり多くの観光客が訪ねる地区である。
 例幣使街道を北に辿ると嘉右衛門町で、この地区はメインの道路から外れるため静かであり、しかも連続した町並景観が比較的程度よく残っていた。街道は緩いカーブを描きながら連なり、黒・白漆喰の町家や蔵造りの旧家が見られる。一角に残る岡田家はこの一帯の嘉右衛門新田を開いた士豪。嘉右衛門新田村の代官職、そして本陣も務めていた由緒ある旧家。巴波川沿いの水辺風景、大通りの蔵の町並、嘉右衛門町の街道沿いと栃木の古い町並はこの三箇所が主体であるが、中でも町並らしいのはこの嘉右衛門町である。
 あちこちに洋風建築が見られるのも特徴的である。主なものに栃木市役所別館、栃木病院などがある。江戸期からの繁栄期が県庁所在地であった明治初期まで続き、それ以後大きく開発されなかったからだろう。このようにこの町は変化に富む様々な古い町の姿が味わえる歩いていて楽しい町だ。

例幣使街道沿い(嘉右衛門町)の町並


訪問日:2004.10.10 TOP 町並INDEX