壬生の郷愁風景

栃木県壬生町【城下町・在郷町】 地図
 
町並度 4 非俗化度 7  −城下町を基盤に水運・陸運の利を得て商業が発展−




旧城下町の中心に古い建物が散見される壬生の町並






 壬生町は県の南部、宇都宮の市街地より南西に10km余りで東武鉄道宇都宮線が町域を縦貫している。
 市街中心から少し西に偏したところに現在も壬生城址が見られるように城下町が町の基盤で、中世よりここに居を構えていた壬生氏が15世紀後半の文明年間に築城したものであり、現在は歴史民俗資料館などが立地している。
 壬生氏の滅亡後、関ヶ原の戦による国割により日根野氏が信濃から移り、壬生藩が成立した。その後藩主は度々変遷したが小藩ながら明治維新まで続き、下都賀郡内のほか下総結城郡の一部を領地におさめ、さらに大和や播磨にも飛地があった。
 寛永期後半(1640年頃)頃に城の西部を流れていた黒川を東に移し洪水の防止と耕作地の確保を図った。表町・通町が城下町として整備され、現在の町の姿の原形が造られた時期といえる。両町には名主と問屋が1軒ずつ配置された。奥州街道の脇道(日光御成街道)として街道集落としても機能しており、通町の名主松本家は本陣もつとめていたという。将軍の日光社参時に壬生城に立寄ることもあったという。
 町場の発達と街道の通行もあって商業町としても賑わい、表町は2・7日、通町は4・9日の六斎市が開かれ、移入品中心ではあったが米や肥料、塩などが取引され、上州から絹売り商人も入り込み商いが行われた。黒川には河岸があり、高瀬舟の遡上終点となっていたことも、壬生の商業町としての発展に寄与した。江戸まで35里の位置にあり、鹿沼の麻をはじめ会津地方の煙草・炭などもここから水運に委ねられた。最盛期には栃木の巴波川水運と競合するほどであったという。
 城下町の中心地区は交通量の多い通りとなっており、また道路も拡幅されたらしく西側に所々古い家並が残っているものの、連続した箇所は見られなかった。電線が埋設されるなど意識された色が見え、景観的にはすっきりした町並であった。
 その中で印象的だったのが名主であり本陣も兼務していたという松本家と、藩医であった石崎家の姿であった。いずれも保存状態がよく簡素ながら端正な前庭を従えており、町による簡単な案内板も備えられていた。また城址に向う通りには厳かな塀に囲われた中に複数の大谷石の蔵が見られる風景があり、商業町としての繁栄を象徴しているように感じられた。




左:松本家 右:石崎家

 
訪問日:2019.05.01 TOP 町並INDEX