東城の郷愁風景

広島県東城町<城下町・商業都市> 地図 <庄原市>
 
町並度 6 非俗化度 8 −備後東部の山間の町 備中地域を含む枢要地であった− 













連続性の高い家並の残る東城の町並


 東城町は広島県の北東端を占める町である。町を流れる東城川は高梁川水系であり、商圏も岡山県阿哲郡域を含み、備後と備中にまたがる地域の中心を長い間担ってきた。
 県下で最も広い面積を有する町域は中世以来奴可(ぬか)郡と呼ばれた一帯で、品治郡新市(現福山市北西部)を本拠としていた宮氏の勢力がこの地にも及んで、天文2(1533)年現在の西城町大富山城に入城、同時にここ東城川西岸の五品岳城に家臣を配し、東城と名付けた。町名の興りである。
 慶長5(1600)年に福島正則が入封、その後浅野氏の統治下になると、藩の管理する町場としての、いわゆる「在郷町」として重要視され、西岸の川西村が町場として発展し東城町が成立している。この頃から町年寄・庄屋も置かれていたようだ。
 在郷町として発展していくその後の東城には、背後に中国山地の鉄山を控えて鉄穴(かんな)流しが盛んに行われ、「くろがねどころ東城」ともいわれていたそうである。
現在でも川西と呼ばれるかつての町の中心部は、福山城下から伯耆を結ぶ伯耆路、備中街道などの街路沿いでもあった。西に聳える五品岳の麓に武家街を設け、それらと街道は横小路で結ばれていた。町の中心には高札も設けられていたという。さらに街路は二度ほど直角に折れ曲がっており、現在もそのまま残っている。山陰と山陽の中継地点として交易の中心を担っていた町の様子が町の雰囲気に感じられた。鉄は町の問屋に集荷され、東城川の舟運に任され備中成羽に出荷、そこで高瀬舟に積替えられ玉島へ運ばれ大阪へと運搬された。東城には鉄問屋や鍛冶屋、鉄小間物商など鉄関連の商人・職人も当時から周辺地域に卓越して台頭していたようだ。
 さらに、備中松山(現高梁市)、福山・府中から特産の木綿販売の商人も街道を辿って往来してきた。塩や鰯などの海産物も携えてここは物資の集結地として商業の中心を欲しいままにしたのである。
 現在も川西の街道筋に古い構えの商家風の建物を多く見ることができる。今では営業されていないものもあるが多くが商店としての構えのため、1階部分は建築当時より改築されている例が多い。しかし二階部分は比較的原型を保ち、出格子窓を持つものが標準的で、虫籠窓は余り見られなかった。軒下には幕板が垂れ下がっている旧家も多い。
 表立った保存活動は行われていないようではあるが、古い町並としての存在価値は高く今後の取組に期待したい。




造り酒屋や旅館も町並に息づいている


後半2枚:2003年8月撮影
その他:2010年10月撮影
訪問日:2003.08.03
(2010.10.17再取材)
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