富岡の郷愁風景

熊本県苓北町<城下町> 地図
 
町並度 3 非俗化度 8 −天草の中心であり続けた島の城下町−
 
 




富岡の町は平坦な砂洲上に直線的な街路が貫き、城下町の計画性が踏襲されています。
 

 天草下島北部・苓北町の北西に張出した小さな半島に富岡の町がある。現在ここと長崎市の間にフェリーが往来し、熊本・長崎間の短絡ルートの役割を担っている。
 島の集落としては意外だが、ここは城下町として代々受継がれていた土地である。小半島は富岡城址のある小島と島本体を結ぶ砂洲で構成され、その平坦地に町場が開ける。今でも街路の姿は碁盤目状をなし、整然とした印象を受ける。

 中世には志岐氏の支配するところであった。当氏は半島の付根に城を構え、天草諸島の浦々を領有していた。戦国末期になると九州各地で諸豪がせめぎ合い、天草地方もその渦に巻き込まれていく。志岐氏は有馬氏、そして薩摩島津氏との係わり合いを強化し、有馬氏を通じてキリスト教も取入れている。
 天正15(1587)には秀吉軍の進出により志岐氏は鎮圧され、関ヶ原の役後、肥前唐津の寺沢氏の所領となる。寺沢氏は富岡城に居を構えたが、寛永14(1637)には天草・島原の乱が勃発し、城及び土地を没収されている。乱後は山崎家治に与えられたが、国替えにより幕府領となって、代官鈴木重成が着任した。
 さらに進んで寛文4(1664)年、富岡藩が成立し、この頃に城下町としての体制が徐々に整えられていったものと思われる。城には陣屋が置かれた。
 このような目まぐるしい転変を経るなかで、常にこの富岡は天草地方の政治的中心であった。沿岸警備が重要であった時代のこと、海に突き出した城は遠見番所として最適であり、有事に備えるには格好の地形でもあった。









 

 町割は往時の趣を良く残しているが、軒を接して密に建て込む家々には伝統的な姿は少ない。おそらく海風の影響が激しい土地柄であるため塗屋造りが少なく、耐用年数の短い板張りの家々が多かったことが一因なのだろう。それは今に残る数少ない町家の姿を見ても推測できる。しかし格子が美しく残る旧家もあり、軒下の持送り・幕板などの意匠も見られた。
 家並は砂洲の中にかなり広範囲に渡って連なっており、当時より大きな町場を形成していたことを示していた。
町の北部、城山の麓にある大手門の石垣
訪問日:2004.05.03 TOP 町並INDEX