富田林の郷愁風景

大阪府富田林市<寺内町・商業都市> 地図
 
町並度 8 非俗化度 4 −今井と並ぶ代表的な寺内町−




 富田林は日本を代表する寺内町の一つである。一向宗の門徒が本願寺を取り巻いた町を形成し、周囲を土塁や濠で画然と隔てて自衛した町をそう称するのだが、近畿地方に限られており、その数も少ない。そんな中で富田林は奈良県の橿原市今井と並んで、往時の町割や旧家の保存状態がよく、重要伝統的建造物群保存地区となっている。
 富田林町のほぼ中央にある葛原家  




 富田林町 城之門筋の町並 町の東端近くの越井家 材木商を営んでいた


 町場が形成される前はここは荒蕪地であった。16世紀半ば、本願寺一向宗の興正寺証秀が、周囲の村の庄屋株の者8人を指揮してこの荒地を開発し、興正寺別院を建立して富田林と名付け、この8人を年寄格として町づくりが行われた。街路は碁盤の目状に整然と造られ、南北の通りを「筋」、東西の通りを「町」と名付けた。ほぼ正方形に500メートル弱四方で開発されたこの町は、今でも内部に踏み入れると周囲の雑然とした家並とは異なる空気が感じられる。当時は寺内町には4つの門からしか出入り出来ず、夜間は閉じられていたという。台地の端に位置していたこの町は、南部が急坂となってその眼下には川が流れ、自衛するにふさわしい地形でもあったようだ。
 川運の利便性から商業も立地集積した。特産河内木綿をはじめとして、鍛冶屋や米屋、造り酒屋など多種多様な商いが行われ、市場の町へと発展する。現在多くの大規模な町家が残っているのは、それだけ商業で栄えた家々が多かったことを物語っている。街路や町割は自衛的な寺内町を示し、一方で家々は商業都市の繁栄を物語る。富を基盤にしっかりした造りの家々だったからこそ、現代までこうして残っていられるのだろう。そういう意味で今井との著しい類似がある。
 この町は国により保存されているのだが、ほとんどが現在も現役として居住されているのが特徴だ。格子窓や外壁など、補修され綺麗になっている姿も眼につくものの、苔むした本瓦、くすんだ漆喰壁など、意外にも「そのまま」の姿が多い。狭い町中のこと切妻平入りで街路に軒を連ねている旧家も多いが、塀を巡らし中庭を構え、入母屋の上にさらに複雑な屋根造りを見せる豪邸もあり、それらには煙出しの小屋根が一際強いアクセントを放っている。虫籠窓状の排出口を付けたもの、鬼瓦を纏ったものなど見応えがある。煙出しは竈の煙を屋根から排出する機能本位のものだが、ここではそれにすら繁栄の証を表現したかったのだろう。
 そのような豪商の代表的なものが旧杉山家住宅だ。富田林を造った「八人衆」の一人であり、17世紀後半には酒造株を取得して営々と酒屋を続けてきた。天明期(18世紀後半)には年間千三百石を数えたという大商家で、町内で唯一国の重文に指定された旧家である。公開されているので床の間の障子画、奥座敷、欄間の凝った意匠などを拝見し富田林商人の繁栄に思いを馳せてみたい。
 町内の通りはほとんど寺内町時代そのままの幅員で、車もほとんど入ってこれない。落着いた散策が味わえる。特に城之門筋は奥谷家の屋敷群、寺内町の中心であった興正寺、虫籠窓と本瓦の競演の見事な橋本家・木口家の界隈など、町並の中心をなす通りである。交差点は微妙に食い違いを見せる。当地で「当て曲げ」と言われ、敵が侵入してきた時見通しを悪くするためのものだったという。こうしたところに自衛の町らしい面影が残っている。
 




 富田林町の町並 右は国重文旧杉山家住宅


富田林町の町並


本町の町並




富田林町の町並
         
※前半3枚:2003年7月撮影
その他:2010年3月撮影

訪問日:2003.07.13,2010.03.28 TOP 町並INDEX