登米の郷愁風景

宮城県登米町<城下町・商業町> 地図  <登米市>
 
町並度 5  非俗化度 5  −城下町を基盤に北上川水運の一大拠点として発展−





登米の町並


 登米は県の北東部、平野と丘陵の交錯する地形のもとに展開しており、町の中央を北上川が貫流している。
 古くから開けた地で、文治5(1194)年には早くも葛西氏がここを本拠に現在の岩手県南部を含む一帯の大領主となり、寺池城と呼ばれる城を構えた。豊臣秀吉に滅ぼされるまで約400年間支配が続いた。中世末期には北上川の水運の拠点としての機能も発達していたという。
 関ヶ原の役後に寺池城に入った白石宗直により本格的な城下町の建設が行われ、城の周囲に武家屋敷、北上川岸に町家を配し、河岸より物資の積卸を行わせた。武家町は短冊状の町割がなされ前小路・後小路などと呼ばれ、それを取り囲む地区に足軽を置いた。また中世まで氾濫を繰返し流路の安定しなかった北上川の改修を行ったことも白石氏の功績である。
 近現代になって鉄道沿線から外れたことで町は衰退したが、逆に藩政期以来の姿を留める結果となった。当時の町家地区にあった三日町・九日町・中町などといった町名が今に息づいている他、鰻の寝床状の間口の割に奥行の深い都市型の宅地割の名残が市街中心の家々に受け継がれている。商家系の古い町並としては残念ながら連続性が高いものとはいえないが、土蔵や看板建築も多く見られ、それは明治以降も近隣に先駆けた地区の中心としての役割が与えられ、賑わいを呈していたことを示しているようであった。
 一方で武家町の名残としては厳かな茅葺の母屋と広い庭園を残す鈴木家を筆頭に、町家地区の西側にその姿を残す。ほとんどが門と塀のみしか残っていない例の多い旧武家町にあっては、比較的原形をとどめているといえよう。
 この地方は2011年に発生した東日本大震災の影響が大きかった地区で、訪ねたときも公開されていた洋風建築が未だ修理中のままであったり、仮囲いの中にある伝統的な建物も少なからず眼にした。そのため古い町並としても健全な姿を取り戻しているとは言えない中での探訪であった。しかし短い訪問の間で感じたことは、人々の生活風景が徐々に震災以前の姿を取り戻しているように感じられ、安堵感を覚えた。
 町のシンボルである旧登米高等尋常小学校は重要文化財に指定されている。一部災害のため公開禁止となっている箇所もあったが、国内でも屈指の明治の学校建築の遺構として価値の高いものであり、町の歴史を象徴しているものと感じた。 
 








武家地の名残のある一角もある 右は鈴木家の母屋



旧登米高等尋常小学校の建物(重文)

訪問日:2012.08.15 TOP 町並INDEX