佃・月島の郷愁風景

東京都中央区佃・月島<漁村・都市部の非戦災地区> 地図
 町並度 5 非俗化度 3 −都心に奇跡的に残った漁師町の痕跡−
 


 今に残る佃堀と呼ばれる船溜り。この周辺に路地風景が多く残っています。 佃煮の天安


 佃(佃島)という地名は首都圏に住む方以外でも一度は耳にしたことがあるのではなかろうか。佃煮の名はこの佃島に由来する。それを証明するように今でもこの地区には佃煮の古風な店が幾つか残っている。
 島という感覚は現在では全くない。本土側からは複数の橋がかかり、地下鉄で都心とも直結している。しかしこの地区を歩くと、島の漁師町であった痕跡がわずかながら感じられるから面白い。
佃の路地風景
 

 江戸時代初期まで佃島は隅田川の河口の洲に過ぎなかった。干潟同然であったのを陸地化して定住したのは大坂の漁民であったという。彼らの出身地が佃であったため佃村とされ、信仰していた住吉神社の分社を島内に設置している。
 以後佃島は漁師町として長らく息づいていく。河口・内湾漁業、特に白魚漁が盛んで江戸城中にも献上されていた。漁師は夏の間漁に出るとき弁当の中身が腐るのを防ぐため魚を醤油で煮詰めて持っていったそうで、これが佃煮の由来と言われている。
 その後東に接した干潟を石川島という人工島として陸続きとなり、人足寄場(江戸の犯罪者を収容更正する施設)が設けられ、幕末には後の石川島播磨重工業の前身となる石川島造船所が誘致された。さらに明治中期には隅田川上流からの土砂堆積を浚渫して佃島は西に陸地を伸ばした。この新しい地区は月島と呼ばれた。この頃から東京湾岸は工業化が著しくなり、漁業は急速に衰退していく。
 地図で見ると東京駅から直線距離ではわずか2km余りである。現在では都市化の波に完全に飲込まれていると思いがちであるが、そうでない一角がしっかりと残っている。
 佃堀とよばれる船溜りが今でも残り、それと隅田川に囲まれた地区は手付かずのまま残った町家が幾つか残っている。出桁造りと呼ばれる伝統的な家屋、古い構えのまま営業されている佃煮の店、それらを縫う路地は意外性に満ちている。これが地方都市の一角にあるのなら格別に価値があるほどの物ではないかもしれないが、大都会東京のしかも都心に極めて近い地区にあることは驚愕に値するといっていいだろう。堀を挟んだ旧石川島地区には超高級・高層マンションが圧倒するように聳えているが、その余りに激しい対比も逆に見物である。
 隣接する月島地区も歩いておきたい。ここは佃ほど伝統的な町家建築は残っていないが、戦災を受けなかったため下町的風情が濃く残っている。商業地として開発された地区であるがその時期は古く近年大きく更新されなかったため、原型的な町の風景である。「看板建築」と呼ばれる、通りに面して胸壁を立ち上げた独特の家屋が連なる家並はまた佃とは違った風情があった。
 ここは最近になって「もんじゃ焼」のメッカとなり多数の店が見られ人通りも多いが、古い町並風景がそれに接して表裏一体で残っていた。






月島の町並。路地風景はここでも健在です。


月島のメインストリート。看板建築と呼ばれる特徴ある家屋が並んでいます。


訪問日:2004.10.11 TOP 町並INDEX