都留の郷愁風景

山梨県都留市<産業町・陣屋町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 8  −郡内地方の中心都市 伝統産業が栄えた−




 都留市は県の東部、桂川沿いの盆地状の地形に市街地が開けている。北東は大月市に接し、富士急行線の沿線であり河口湖方面へつながっている。
上谷3丁目の町並(商家資料館)




上谷5丁目の町並 上谷3丁目の町並



中央3丁目の町並



 昭和29年に都留市が成立するまでは谷村町といい、古くは単に谷村と呼ばれていた。中世には小山田氏が本拠地として居を構え、その頃既に郡内地方と呼ばれるこの地域の中心として機能しはじめた。
 江戸初期に谷村藩が成立、受封した秋元氏は1万8千石の小藩ながら郡内地方一帯を支配した。一時城下町として10町を従え、農地や用水も整備された。
 宝永2(1705)年、秋元氏の川越移封に伴い谷村は幕府領となったが、谷村代官が置かれ、その後甲府・石和代官の出張陣屋が置かれ、地域の政治の中心としての役割は失われることが無かった。
 甲府盆地から大月、上野原にかけてのルートからはずれ、交通幹線に面することはなかったものの、甲州街道へ抜ける複数の街路、鎌倉往還の下吉田に向う街路などが谷村で合流し要となり、物資や人の結節点となった。
 さらに町の発展を促したのが伝統産業である郡内織であった。早くも18世紀前半の享保年間には絹問屋、仲買人、旅商などと名乗る商人が多く台頭した。商人たちは甲州のみならず駿河沼津、伊豆三島、相模小田原など各方面と商取引を行った。
 明治になり甲府県(後の山梨県)に移行しても、甲府盆地とは隔絶した地域であることから支庁が置かれ、政治経済の中心という地位は変わらなかった。郡内織も引続き基幹産業として、市も定期的に開かれるなど賑わった。
 現在では地方の小都市としては珍しい大学のある町、文教都市としても知られている。
 国道沿いの中央4丁目から上谷5丁目にかけて町並が残り、その姿は町家風建築、洋風建築、土蔵などさまざまな姿を見せる。その中で大正中期建築のもと絹問屋の建物が商家資料館として公開されている。郡内織の繁栄を今に伝える伝統的な建物だ。
 


中央2丁目の町並



上谷2丁目の町並



中央3丁目の町並


訪問日:2015.05.02 TOP 町並INDEX