敦賀の郷愁風景

福井県敦賀市 【港町】 地図
町並度 4 非俗化度 8 −畿内と北国の水陸接点にあった重要な港町−




相生町の町並
 敦賀は古代から港を軸に発展してきたところであり、現在でもわが国有数の港湾都市として位置づけられている。
 海岸線が複雑に入組んだ地形は日本海側では少なく、風波を凌げる良港として着目され、大陸方面からの使節も入港することが多かった。8世紀には使節を受け入れる松原客館が設けられるなど交易の場ともなった。
 敦賀は越前国に属していたが、その中心となった福井平野周辺とは地形的に隔絶されていたため中世より独自の政治支配、そして文化が育成された。それは畿内とのつながりが深かったということにもよるのだろう。琵琶湖の水運は大量輸送が可能で物資の往き来に大きく貢献した。琵琶湖側は塩津と海津の二つの港があり、大津方面を結んでいた。
 江戸期には上方の商業活動が劇的に活発化したこともあって、敦賀港は日本海沿岸地域との交易を拡大し、廻船業者は蝦夷地までその商圏を持ち、特に廻米の輸送とその販売管理により巨利を得た。しかしその後西廻り航路が発達したことにより琵琶湖水運による物資輸送の比率は低下した。江戸末期には琵琶湖まで運河を開削しようと何度か試み、文化13(1816)年には疋田まで水運が通じたが全通することはなかった。
 しばらく精彩を欠いた状態が続いたが、明治に入り鉄道が開通すると再び活況を呈することとなった。北陸本線の開通により海路迂回していた物資が敦賀に集結するようになったからだ。北海道から北陸までの各地の産物が積上げられ、また京阪神の生活物資等はここから積出されていった。日露戦争後にはシベリア鉄道も開放されたため、ウラジオストックまでの航路も開かれ欧州への玄関口ともなっていた。









川崎町の町並 結城町の町並


 古い町並はその深く重要な歴史に反して余り多く残っていないのが惜しまれる。その中で相生町・元町・結城町辺りの一帯には風情ある町家建築や土蔵、洋風建築もいくばくか残っていた。この付近は戦国期には既に町立てされていたといわれており、それは気比神宮の門前町的性格を帯びたものであったという。海岸に近い位置には漁師町や廻船業者の住まう町、その南側が商業地区であり、一部に遊女町もあったという。
 相生町にある旧大和田銀行の洋風建築には近代敦賀の賑わいを見る思いがし、その東の気比神宮から連なるこの一帯はこの町の繁栄の歴史を感じ取ることのできる貴重なエリアであろう。

訪問日:2009.08.15 TOP 町並INDEX