津屋崎の郷愁風景

福岡県津屋崎町<港町> 地図 <福津市>
 町並度 6 非俗化度 7   −津屋崎千軒と言われるほど栄えた商港−
 




豊村酒造付近の町並。左が「藍の家」。 港町らしい細い路地が入組みます。




伝統的な家々は広い範囲に散らばっています。 酒屋の煙突の見える情緒ある風景も見られます。
          
 津屋崎とは響きのいい地名である。西に玄界灘を控えて古くから良津として賑わっていた町は津屋崎千軒と呼ばれ、遠賀川河口の芦屋とともに筑前を代表する港町であった。
 古くは岸近くに浮ぶ小島との間が砂洲で繋がった地形で、海の中道と呼ばれていた。懐に抱かれた静かな入江は、古代から人が住着いていたと言われ、古墳等史蹟も多い。
 次第に土砂が溜り浅くなった入江は江戸期に干拓され、塩田として開発された。讃岐国から寛保元(1740)年にやって来た大社元七は、地形を見て製塩を志し、福岡藩の援助を得て塩田を開き、津屋崎荒塩と呼ばれ博多の味を支えてきた。
 港町としても発展を示した。海とのつながりは古くからあり、中世より宗像社がこの一帯を支配する中で、地形的にも海に突出したような位置で海路の拠点になり、港は宗像氏の家臣が海賊を従えて支配していたという。安永年間(18世紀後半)には波止2箇所が築かれており、商船、廻船も多く立寄れるようになり殷賑の港となった。当時の筑前黒田藩は、博多湾沿い(の船)は海上交易を禁じ、有事には水夫として召集できるような体制をとっていたため、湾から外れたこの津屋崎が廻船で栄えたわけである。博多湾の外港として物産の集散地となり、五十石積の「イサバ船」と呼ばれる商船が西日本一帯を往来していたといわれる。
 町の繁栄は明治から大正にかけても衰えず、塩田とともに賑わいを保持し続けたが、陸上交通の発達に伴い次第に陰りが見え、戦後塩田も閉鎖され今に至っている。
 古い津屋崎の町は江戸期に度重なる大火に見舞われ、その頃の家々はほとんど残っていない。しかし明治の建物は多く残り、港町らしく細い路地の続く家並は、漆喰で塗りまわされた平入り・妻入り混在の2階屋や、かつて遊郭が存在していたという海寄りの地区には、木造二階建・桟を四囲に張り巡らした寄棟屋根の家屋も点在し、繁栄をほしいままにしていた時代の残像が今でもはっきりと読み取れる。
 町で唯一常時公開されている伝統的な家、旧上妻家は「藍の家」という愛称で町を訪ねる人々の憩いの場となっている。寛政年間創業の染物商で、五代目善兵衛が明治34(1901)年に建築したもので、外観は切妻造り平入り2階建、2階が白漆喰で袖壁が両脇につく。1階部の格子もよく保たれていて代表的な旧家といえよう。無骨な梁材は、数年間も海水に浸けて防腐対策とした「塩木」が用いられ、当時としては超高級な造りだったのだろう。この「藍の家」と隣接する豊村酒造の主屋付近は、古い町並らしい眺めを保っていた。
 中ではボランティアグループの手作り作品が売られており、案内の方の言葉からも津屋崎の町並を大切に守っていきたいという心が伝わってきた。地道に活動を続けてほしいものだ。





ただ一つ公開されている旧家「藍の家」 豊村酒造横の風景
 
訪問日:2003.12.04 TOP 町並INDEX