上田の郷愁風景

長野県上田市<城下町> 地図
 
町並度 7 非俗化度 4 −北国街道沿いに残る商家群−
 


旧柳町の町並

 長野県東部の通称東信地方の中心都市である上田市は盆地に立地し、年間降水量が約900mmという寡雨の地で、千曲川を挟んで川東・川西と呼ばれる。川西は塩田平と呼ばれる一帯で、信州の鎌倉と言われるほど史蹟を多く残し、山懐に別所温泉という温泉場もある。
 一方、川東は上田城を中心とする城下町として栄えた地区であり、また旧北国街道も通過するところとして宿駅も置かれていたという。ここではこの城下町の町並を紹介したい。




北国街道沿い(旧紺屋町)の町並 旧北国街道沿いの町並




旧柳町には卯建を備えた旧家が連続して残り、古い町並の風情を高めている。




旧北国街道沿いの町並。ここにも卯建が見られる。


 戦国の名城上田城は現在でもその雄姿を残し、北側に旧北国街道が東西を結んでいる。旧城下町の多くの例にあるように、武家町はその面影をほとんど留めることなく、現在残っているのは主に街道沿いの商家群である。国道18号線から矢出沢川という細い流れを隔てた反対側にはっきりと街道筋が残り、道幅も往時そのままに旧街道沿いらしい街の雰囲気を残している。土蔵建築や造り酒屋などが点在するこの道筋は丁度良い散歩コースだ。
 その中でかつての城下町の東側、旧柳町辺りの南北筋には伝統的な建物が程度良く残り、典型的な古い町並の様相を呈していた。特徴的なのは卯建(うだつ)が設けられていることで、いかにも城下の商人町らしい。卯建にも幾つかの種類があるが、ここでは袖卯建で、二階の妻部に瓦を葺いた小壁が突き出している。この形式が主に見られる他の地域は徳島県くらいのもので、遠く離れた地域での共通点は興味をそそる。但し阿波の袖卯建は前面が直壁で、天端も水平に瓦が取り付けてある例が多いのにに対し、ここでは斜となっている。
 木製の看板を掲げた酒屋、民芸品店などやや観光客に迎合したような色も感じられるが、素地がいいためそれらが町並を引締めているようであり、いい雰囲気の一角であった。
 上田は真田氏の城下町として名高い。中世の頃は海野氏の支配する所であったが、武田氏の侵攻を受けたあと滅び、その後様々な攻防があって、武田氏に属していた真田昌幸が上田城を築いたのである。天正11(1583)年のことであった。
 実際真田氏の統治した時期はわずか40年で、その後松代へと移っていったのだが、この上田で真田の名が高いのは武田信玄に従した昌幸が、その陣法を素早く身に付け、後に信玄の子が滅ぼされ窮地に立たされた時も、昌幸は千曲川流域に「六文銭」「六連銭」と呼ばれた旗印を掲げ、一致団結して徳川軍等と戦い勝利を得た。その英雄振りを称えてのものだろう。
 本格的な城下町建設はその後の仙石氏の段階であった。武家屋敷を整え、東西に海野町と原町の2町を町立てし、鍛冶町や職人町も置いた。各町では定期的に市が開かれ、独占的に取引できる物品も多かったことから大いに栄え、特に江戸中期から本格化した製糸業は京都とも取引されたという。幕末には蚕種業の中心として、これは明治時代まで隆盛を極めていた。
 私は北国街道沿いの町並を歩いただけで、歴史との調和が上手く取れたこの町の全体像を見ることなく次の目的地へと向ってしまったが、旧街道と城址、塩田平を半日ほどかけて探訪し、別所温泉に宿泊することでようやくそれらの魅力を理解することができるのだろう。

訪問日:2006.04.08 TOP 町並INDEX