増田の郷愁風景

秋田県増田町【在郷町】 地図 <横手市>
 
町並度 6 非俗化度 7  −市場の取引から発達した商家群−



 増田町は秋田市に注ぐ雄物川水系の成瀬川扇状地上に市街地が開けている。鉄道沿線からは外れているものの、長らく商業の中心地であっただろうことが察せられる町並が残るところである。
妻入り商家や土蔵が迫力を感じさせる増田の町並








 
 
 羽後には多くの城が中世に構えられ小さな城下町が立地していたが、ここにも戦国末期まで増田城があり、町の基礎が築かれていた。一国一城令の発布により廃城となってからは在郷町として発達し始める。江戸期に入り寛永年間(17世紀初頭)頃から定期市が開催され、次第にその頻度も増えて江戸後期の文政年間頃になると九斎市といって、2日・5日・9日(以後12日・15日・・)と月に九度開催されるようになった。
 この市場の発達は後背地として広大な農村部があったことが大きく、市の商人は農民に米・塩などの必需品を前貸ししたうえで、農産物と取引を行い、それを他の商圏などに売るといった商売を行っていた。特に煙草と繭、綿花が盛んに生産され、その集散地となった。それを受けて加工する木綿や織物の産業も発達した。そのほか豆腐、青物なども盛んに取引されていたという。
 明治に入ると地主が成長し、町の中心街は広大な土地を所有する者が多くなった。地主による投資で明治11年には早くも銀行が当地に設立、同43年には成瀬川の用水を利用した発電会社が発足するなど近代企業もいち早く興った。明治28年には町制が施行されている。
 商取引をいしずえに富を蓄積した裕福な家々は現在でも市街中心にその残影が色濃い。土蔵を従え、間口の広い伝統的な建物が随所に見られる。その多くが妻入りであり、広い間口のために必然的に屋根の立上がりが大きくなり、迫力を感じさせる商家建築である。その姿から多くは明治後期以降のものであろうが、古い町並景観としての貢献度は高い。一部には母屋の中に土蔵を格納した内蔵を有する町家もあるという。
 具体的な町並保存活動の動きはないように見えたが、その価値は十分に見出せる町並であり、今後の取組に期待したいところだ。
 






訪問日:2012.08.13 TOP 町並INDEX