海野宿の街道風景

長野県東部町<宿場町・産業町> 地図 <東御市>
 
町並度 9 非俗化度 2 −養蚕業で重厚さを増した北国街道沿いの町−
 



旧海野宿の家並


 この旧海野宿は旧北国街道筋の中で最も濃く面影を残している町並として、重要伝統的建造物群保存地区に指定され、訪れる人も多い。
 この付近は群馬県境に連なる山脈から伸びる丘陵地を千曲川が刻んだ河岸段丘状の地形をなし、国道18号線と信越本線に挟まれ旧北国街道が残る。両者に潰されることなく旧街道が手付かずであったことから、新しい家屋のほとんど混ざらない純粋な古い家並が保存されている。
 町並は東側の枡形を折れると、ほぼ一直線に700mにわたり続く。もともとここは間の宿であったが、隣の田中宿が寛保期(18世紀半ば)に洪水により大被害を受けたため、ここに本陣その他が移され、本宿に昇格したらしい。枡形が目隠しになりその出現は演出的だが、これは遠見遮断という防衛のための手段である。家々は一部を除いて平入、切妻の形を取り、二階が街路にせり出したような出桁造り(せがい造り)の家屋が所々に混じっているため、凹凸感のある家並である。それをさらに感じさせるのは町並の東部を中心に見られる「うだつ」だ。妻壁を持上げ屋根と袖壁と一体化させた本うだつ、屋根と連続させない袖うだつ、いずれも他の地域で見られるものに比べ立上りが非常に高く、槍のようでもある。このうだつの存在がこの町並の印象、迫力を一層強めてくれる。また、越屋根をつけた旧家も多く見られる。二階部は出格子となっている例が多く、二対ずつ上部をすかした粗めの格子は、海野格子という固有名詞を持って呼ばれている。
 街路に残る水路は道の中央から偏って走り、南側が狭くなっている。宿場時代には北側は大名や旅人などの通行に使われた「往還」、南側は「日陰側」と呼ばれ、こちらは馬をつないで水をのませたり、荷を解いたりするためのものだったという。現在、往還の方は道路となっているため時折自動車が通るが、日陰側の道は歩道として利用されているため町並探訪に最適であり、端正な植込み越しに眺める家並はまさに古い町並と呼ぶにふさわしい佇まいを残している。
 この町並が古い姿を多く残しているのは、幹線交通路に使われることが無かったこともあるが、宿駅としての役割を終えても、産業町として大きく発展し続けていたことが大きい。現在見られる家々は、旅籠など宿場としてのものと、養蚕で栄えた商家が調和しているのだ。越屋根は旧家に良く見られる囲炉裏の煙抜きのような小さいものではなく、屋根を堂々と嵩上げしたような形で、中には窓の付いたものもある。気抜きの櫓と呼ばれ内部は養蚕室となっているという。養蚕業は東信一帯で幕末から明治・大正にかけて極めて盛んで、この家並が今に残っているのは、宿場時代の建物を流用しつつ養蚕によって堅牢な建物が加わっていったことが大きく寄与している。
 私が訪ねた時は桜花の時期間近な頃、信濃路はまだ観光シーズンではなく落着いた家並を存分に味わうことが出来た。観光バスも停められるような駐車場も整備されていたが、その大きさからしてそれほど多数の団体客が訪ねるようではなさそうだ。土産物屋なども最小限度のようで、どうかこの程度のままであってほしいと願いながら町並を後にした。




見事なうだつがこの町並の特徴の一つである。







路地風景

訪問日:2006.04.08 TOP 町並INDEX