魚津の郷愁風景

  富山県魚津市<漁村・城下町> 地図 
 町並度 4 非俗化度 7 −城下町を基盤に漁師町・商業町として発達−

 







諏訪町・本町界隈の町並


 魚津市は富山湾に面する町で、新川地域と呼ばれる県東部地域の中心として発達している。
 古くは魚津城が築城、加賀藩は青山氏を城主として越中東部の支配が行われていた。城主わずか3代のみで廃城となったが、その後も町奉行と郡代を置き、郡代は越中の加賀藩領の軍事警察を司った。その体制は明治維新まで続き、政治的な中心地であり続けた。現在も富山地方鉄道の魚津駅南西側に城跡が残されている。また城下町も整備され、現在の町の基盤が形成されたという。
 城下町は海岸近くまで及び、漁師町と一体化して発達した。さらに街道筋や村方への道に沿い市街地が伸び、町場が拡大していった。
 漁業は定置網や引き網、釣漁などにより行われ、販売は魚問屋3軒のみに限定されていたという。釣以外は免許制度で漁場も厳しい制限が設けられていたが、漁獲のみならず干鰯や魚油など海産物を原料とした商品も多く生産したのも富山湾をはじめ周辺海域に豊富な水産資源があったからだろう。木綿や繭などと合せ高岡、金沢、飛騨方面に販売されていた。
 諏訪町や本町といったあたりに古い家並が見られる。城下町と漁師町が交錯して形成された辺りである。本来は大きく古い町並の広がりがあるかに思えるのだが、狭い範囲に限定されているという印象だ。
 これは恐らく昭和31年に発生した大火により他の多くの地区が焼失したためと思われる。魚津は災害、とりわけ大火の多いところで、寛文11(1671)年493戸、元禄15(1702)年640戸、宝暦7(1757)年1377戸など多数あり、昭和31年は1583戸という大規模な火災に見舞われている。
 しかし、町並が失われた地区にも見所がある。大火を教訓にいわゆる防火建築帯と呼ばれる建物群が見られることだ。3階建程度のRC造りの建物を帯状に連ね、火災発生時に建物自身で延焼を防御しようというものである。1階部は店舗となっており、商店街として活用されている。
戦後の大火後に形成されたものであるから古い町並ではないが、大火が形成した独特の町並ということができるだろう。
 




中央通り二丁目の町並 商店群による防火建築帯が形成されている



新宿の町並

訪問日:2019.01.01 TOP 町並INDEX