浦賀の郷愁風景

神奈川県横須賀市【港町】 地図
 町並度 4 非俗化度 6 −江戸防備のための海運の枢要地であった−



 
浦賀は東京湾口の西、三浦半島東部に位置し、黒船来航の件で歴史の教科書にも紹介されることから位置は解らなくても地名は知っているという方がほとんどだろう。
 この事件が象徴するように、この浦賀はそのはるか昔から海運上非常に重要なところであった。まず戦国期には浦賀城がここに居を構え、港を本拠地とした水軍がたてられた。この海賊といってよい軍団はなかなか荒っぽく、対岸の安房(現在の千葉県南端)と浦賀水道を隔てて対峙し、領地を巡って戦乱を繰り返していたという。



西浦賀の町並




西浦賀の町並は切妻の木造町家建築と石造りの土蔵に象徴される


 江戸期に入って享保5(1720)年には江戸城の防備を目的として番所がここに設置される。湾の入江も深く、また水深もあり江戸へ近いということで、それまで伊豆下田にあったものが移転してきたといわれ、以後江戸へ向う廻船の荷改めがここで行われることになった。江戸への船で米や大豆を500俵以上積む場合は浦賀奉行所への届出が義務付けられ、また船の石高にして10石につき三文の料金を徴収していた。近隣の緒船はその年の最初に十八文を納めると年内は通行料を免除されるなどした。奉行所は沿岸の警備や三浦半島に存在していた天領の支配なども任務に含まれていた。
 幕末には冒頭に述べたペリーの黒船をはじめ異国船の来訪が絶えず、鎖国体制を敷いていたこともあって浦賀は軍事的色合いを濃くせざるを得なかった。明治に入って横浜が国際港として開港されると、浦賀はその最盛期を終えることとなった。
 この浦賀湊と呼ばれた当時の浦賀は、今とは比較にならないほど交通上、また政治上需要な土地であったのだ。
 入江を挟んで西浦賀と東浦賀に大きく分かれるこの町は、京浜急行電鉄の浦賀駅付近を要にして逆V字型に展開している。
 浦賀の古い町の姿は主に西浦賀に見られ、海岸沿いの二車線の道路の一本裏手には、関東地方で標準的な軒下に桁をせり出した出桁の切妻平入町家が所々に残り、看板建築の商店なども残る。連続した箇所はなく、古い町並としての連続した迫力には乏しいが、東京品川まで電車で1時間以内と完全に首都圏に含まれる地域にあってはその価値は高いものがある。間口が広く、また二階に木製の手摺が付いたそれらの姿からは、花町にも似た風情が感じられた。浦賀番所は関東各地の荷主の代理店や船員の宿泊所も営んでいたといい、湾内に停泊する廻船も最大1000隻に及んだといい、問屋も多く立地し町中に商人、旅人の姿も絶えなかったのだろう。
 西側に接する久里浜に向う街路沿いを中心に石造の土蔵が何棟か見える。この町はまた干鰯など近海漁業も盛んで、漁民はそれらの商品を貯蔵したその名残である。こうした土蔵造りの多いのも浦賀の町の特徴である。
 一方東浦賀は静かな住宅街で、僅かに町家と土蔵が残る一角がある。両者の風景を比較しても、商港として大きく栄えていたのは主に西浦賀だったのだろうと想像できる。 
 両市街地を隔てる湾には渡し舟があり、客があると随時運行される足代わりの連絡船だ。東浦賀の乗船口の南側には埠頭があり、全国各地からの船が横付けされていた。付近では市民が釣りを楽しんでいて、中には停泊中の船に乗込んで糸を垂らしている姿も見られた。国内船なら遠方からの船でも今では無論検閲を受けることもなく、付近には港町の風情が潮の香りとともに存分に感じられた。湾口を見渡すと房総半島が意外な近さに望まれた。
 




営業されていないものも含めると、商店の数はかなりのものだ。
かつての繁栄を思わせる 西浦賀地区
東浦賀にわずかに残る古い町並




全国各地からの船が停泊する浦賀港


訪問日:2006.11.05 TOP 町並INDEX