この町の沿岸地帯はほとんど平地に恵まれていないので、牛窓の旧港町は、地形のままに緩やかにカーブした街路に沿い細長く展開している。山に向って路地も派生しているが、その多くは低い丘に遮られ途切れている。
主に古い町並の残る関地区は現代の町の中心からやや東に偏しているため、逆に往時の姿が残っているといえよう。このような狭い路地的な街路の支配する町は、都市計画によって根こそぎ古い家並が失われるのが常だが、そのような気配のないのが嬉しい。
細い道筋に古びた家並が続く。古い構えのまま現在も商売が続けられている旧家もある。しかし現代風に更新された家も少なくなく、一方で取り壊され駐車場などに変貌したものも見られ、連続した古い町並としての密度は余り高いものではないのが実態である。しかし街路の屈曲を曲ると新たな視界が開け、古びた格子の美しい町家などが現れてくる様子は、何が現れるのだろうという期待感を抱かせ興味深い散策となる。中でも旧牛窓銀行本店(大正4年建築)は煉瓦造りの洋風建築で、木造の町家の目立つ町並の中では異質であるが、繁栄を誇っていた時期のこと、当時としては斬新な建物がここに建設されたのは不思議ではない。近年は荒れるに任されていたが最近修繕の後公開され、牛窓の歴史が写真で公開されている。
江戸期の牛窓は備前有数の港町として西廻り航路の寄港地となり、また朝鮮通信使も立ち寄り、構成人員は時に500人にも及ぶこの使節団を受け入れてきたという。宿屋だけでなく寺の境内も宿泊所に当てられたという。このような折の町の賑わいはどんなものであったろう。
牛窓のもう一つの顔が造船の町としてのものだ。海へ突き出た燈籠堂を回りこんだ先に展開する東町は慶安年間に入海を埋立てて開かれた町で、造船業が盛んであった。今でも造船所の看板を掲げた姿が目に入り、一隅にあるとりわけ大きな豪邸は東服部家(屋号若菜屋)、一大材木商であった旧家だ。港町としての商取引の基幹に木材があり、船大工、船具商も多く立地していたという。今でも商いを続けているのか故意か、年季の入った船具商の木製看板を掲げているお宅もあった。
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