内海の郷愁風景

広島県内海町<漁村> 地図 <福山市>
 町並度 5 非俗化度 10 −遠洋漁業で栄えた瀬戸内では異色の町−






 内海町田島の町並。この石灯籠の前は、住民がかつて網すきをした広場であるという。 内海町田島の町並(2002・01撮影)




港舘。もと映画館か何かだったのでしょうか。 内海町田島の町並

             

 鞆半島の先端より美しい曲線橋で結ばれている内海町。この町を構成する2つの島の間にはさらに橋がかかり、各々の島の集落もその辺りがメインである。
 慶長5(1600)年毛利氏に代って広島城に入った福島氏が翌年に実施した検地によって、それぞれ田島村と横島村が誕生している。平地が極めて少なく、「備後郡村誌」によれば、「山四合海五合畑壱合村」であり、「田方無御座」、畑は「旱損所」であったため、純粋な漁村として発達していく素地があった。女は農業の傍ら木綿織または網すきに従事していた。江戸中期以降、藁縄に代る麻で網を仕立てて、船に積み各地で販売したという。
 また、田島・横島ともに、大名の参勤交代時に人夫として徴発される「加子浦」に指定されていた。
 漁業は特に田島で盛んで、鯛網が盛んで毎年藩に献上していたと伝えられる。漁業にしか主な活路を見出せなかった島民は、江戸末期頃から近場の漁場のみならず、九州五島列島周辺などに出稼ぎ漁業を始める。明治中期頃まで、毎年50〜60人が西海に渡ったと言われている。捕鯨にも携わり、町内の神社には五島捕鯨会社からの寄付額が刻まれた石碑が残っているという。明治期には遥かフィリピン沿海まで出かけた記録も残っている。
 現在の町並はその時期の収入で建てられたものであろう。瀬戸内の島の漁業集落としては特異な成立ち及び景観であるといってよい。伝統的な民家は、2階壁面を漆喰塗込め、下部にナマコ壁様、又は鱗状の装飾を付け、1階はサッシに替えられたものも多いが稀に出格子も見られ、軒下には豪華な持送りも見られる。田島地区の海辺にはかつて映画館であったであろうと思われる「港館」が一際異彩を放つ。
 古い町並が連続しているというほどではないが、家並は外の目を意識した色なく手付かずであり、古くからの漁村の風景を伝える貴重な町並といえよう。

   

内海町横島の町並 内海町横島の町並

※注記のある画像以外は2004年1月撮影のものです。


訪問日:2001.01.08
(2004.01再取材)
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