卯之町の郷愁風景

愛媛県宇和町<宿場町・商業町> 地図 <西予市>
 
町並度 6 非俗化度 4  −宇和島街道沿いの町は文化の発信地だった−











旧宇和島街道に沿って連なる卯之町の町並


 卯之町は山間の盆地の町である。ここは城下町に端を発する根深い歴史を持つ町であり、宇和地域の中心が宇和島に移るまではここが宇和郡の中心として、政治・経済・文化が発展した。宇和という呼称は即宇和盆地を指し、それ以外の地は宇和とは呼ばないという口伝が今でも生きているようである。
 ここはかつて松葉と呼ばれ、西園寺氏の居城であった同名の城のもとに開けた城下町であった。町場としての本格的な発展を示したのは宇和島藩成立後、宇和島から松山への宇和島街道が発達し、八幡浜などへの街路の分岐点ともなったことから宿駅として機能しはじめてからである。
 山が直接海に没するような地形の多い藩域にあって、周囲を山に囲まれた盆地は平地が大きく広がり、藩内一の穀倉地帯となっていた。そして近在の村々からの物資が集散する在郷町としての賑わいもあり、定期的に牛馬市などが開かれていたと言われる。天保年間までには卯之町と改称されて、この頃は40頭の馬も常備されるほどの賑わいようであった。
 町並は当時の宇和島街道に沿って残る。宿場町によく見られる鍵曲がりも明確に残され、特にその南側の中町では連続した古い町並が見られた。平入より妻入の旧家が多く見られるのが特徴で、それらは商家であり格子を多用した外観が印象的であった。軒や出格子を支える持送りも非常に豪華で目立ち、このように細部を豪華に派手に誂えるということは富の蓄積が並外れたものであったことの証拠である。
 町はここを宇和文化の里という触込みで外来者に紹介している。この町を歩くと、古くから文化の先進地であったことが良くわかる。シーボルトに師事した二宮敬作が幕末に蘭方医を開業し、同じく有数の蘭学者と呼ばれながら、幕府の鎖国政策を批判したかどで囚われの身になった高野長英も、脱獄して逃亡した折敬作宅にかくまわれたと言われる。町の一角には隠れ家が今でも残っていた。
 また西日本で最も古い小学校と言われる開明学校は文久3(1863)年の「申義堂」と呼ばれた一種の郷学校に由来し、当時から寺子屋の枠を超えて世界史なども教授していたという先進的なものであった。明治9年に建築された洋風建築の校舎は公開され、当時の成績表、出欠表など貴重な資料を拝見することが出来る。




鳥居家の長屋門 庄屋職を勤め 高野長英の隠れ家ともなったと伝えられている  旧開明学校のアーチ窓から卯之町教会を見る 近代文化の中心地を象徴する眺めだ

※前半4枚:2003年8月撮影
後半2枚:2009年5月撮影
訪問日:2003.08.15
(2009.05再取材)
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