和田山町は但馬南部の中心的な町であり交通の要衝である。古くからその地位があり、正保年間(17世紀中期)の但馬国絵図には丹波国域から鳥取へ向う山陰街道と竹田城下町を経て播磨姫路に至る播但道が記されており、ここはその接点となっている。
産業面では但馬一円で盛んだった養蚕の中心地の一つであり、但馬絹というブランド名で呼ばれていたという。その他桑・楮・茶や煙草などの産物に恵まれ物資の一大終結地となった。江戸中期には、町域を流れ日本海に注ぐ円山川に高瀬船が運航され流通経済の要としての位置を確立させた。
現在の山陰本線和田山駅周辺には古い町並は残っていないが、市街の南東部、円山川に近い辺りには街路に沿って古い家並が線的に残っている。国道の一本裏手の通りであり、これが旧街道であり商家が並んでいたのであろう。事実町並の南端近くには「左 いせ 右 はりま」と刻まれた道標が残り、山陰街道と播但道の追分であったことを伺わせる。かつては伊勢参りが人生の一大行事であり、伊勢への道標としたのだろう。こうしたことからも時代を感じさせる。
この町並の成立ちが今ひとつはっきりしないが、街道の追分近くに発展した商業地、宿駅としての機能もあったのかもしれない。町並の形態も直線的で街道集落の形なので、宿場・街道集落として分類しておく。伝統的な家々は、多くが卯建を備えており但馬地方の特徴を遺憾なく表現している。しかも全て平入り屋根の両妻端を一段せり上げた本卯建であり迫力を感じさせる。卯建の多く見られる土地として、この地方が紹介されることは少ないが、まさしく但馬は卯建の国である。
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