若松の郷愁風景

北九州市若松区<港町・洋館群> 地図
町並度 4 非俗化度 6 −石炭の積出で隆盛を極めた港町−
 






若戸大橋を背景に残る洋風建築 左:旧古河鉱業若松ビル 右:上野海運ビル





 若松地区と戸畑地区を隔てる細長い洞海湾は昭和37年に開通した若戸大橋で結ばれ、当時としては最新の技術で建設された長大吊橋であった。北九州工業地帯の一部を占めるところとして着目されていたことがわかる。その一方で、連絡船も健在であり、こちらも地元の人々の足として頻繁に運行されている。
 若松の船着場付近には洋風建築が散見される。町の繁栄は、筑豊地方で産出された石炭が大きく寄与していた。
 古くは洞海湾中の小さな島に若松城が築かれていたが一国一城令により廃城となり、その後しばらくは零細な漁村として経過する。文化13(1816)年に焚石(石炭)会所設立。後に藩営となりそれ以後筑豊炭田の石炭集散地としての地位を揺るぎ無きものにした。遠賀川河口の芦屋にも会所があったが、地形や風波の関係で石炭商船の寄港は若松の方が多かったという。当時の若松は塩田開発も盛んで、製塩に火力が必要であったことから地元で販売される石炭も相当量に上っていた。
 明治に入ると若松は繁栄の頂点を迎える。重要港として抜本的に整備され、筑豊炭田との間との鉄道敷設もあり、財閥系の企業が次々と進出していった。大正から戦前にかけても隆盛期が続き、昭和15年には2000t近くの石炭を取扱ったという記録がある。今ある洋風建築はその頃の名残である。
 代表的なものは明治38年築の石炭会館、大正8年築の旧古河鉱業若松ビルだろう。殊に石炭会館は若松石炭商同業組合が事務所として建設した由緒ある建物で、その他多くの当時からの建物が失われた中では非常に価値の高い建築である。
 そしてそれらの背景には常に若戸大橋がある。建物や町並としては当時を語るものは少なくなってしまっているものの、最盛期の片鱗を感じる風景は今なお息づいている。
石炭会館(M38)


若戸大橋の桁下に潜り込むように建つ洋風建築もあった




本町1丁目の町並 この付近の小路からも若戸大橋が見える

訪問日:2011.10.09 TOP 町並INDEX