山北の郷愁風景

神奈川県山北町<産業町> 地図 
 町並度 5 非俗化度 8 −明治〜大正に鉄道町として発展−











山北の町並 駅前の通りに洋風建築・商家建築・古びた商店などが見られる


 山北町は静岡県との県境に近く、小田原に流れ込む酒匂川沿いの平野部の尽きる位置にある。
 中世には北条氏の支城・河村城が構えられ、河村郷とも呼ばれていた。
 江戸時代は小田原藩領であったが、宝永4(1707)年の富士山噴火から享保17(1732)までは幕府の管掌下に置かれており、噴火に伴う降灰により酒匂川の流路が大きく変わりそのあおりを食うなど受難の期間だったという。
 主要街道に面してはいなかったが、箱根関所を補完するものとして、町域西部に脇関所が2箇所設置されていた。
 江戸まではそれほど町場としての発展は無かった一方で、明治に入り鉄道が敷設されると急速にその地位を高めた。明治27年に東海道本線として開通した現在の御殿場線は箱根の北側を迂回する形となり、山北駅の西側に25‰(1000分の25)
という急勾配を控えていた。そのためここで補機を連結する必要があり、山北機関区が設立され多くの専門要員を常時必要とした。
 「山北は補機を増結したり切り離したりした駅である。当時は300人もの鉄道関係者がいたというが、いまは夢の跡となっている。丹那トンネル開通以前の時刻表を見ると、山北は急行停車駅であり、駅弁のマークもついている」
(宮脇俊三『最長片道切符の旅』)
 隆盛期が明治中期から丹那トンネルにより支線の御殿場線に移る大正中期までという間であり、鉄道町というその性格からもやや特殊な歴史を持つ町で、訪ねるとその様子がわかる。 
 現在残る古い建物は洋風の外観をしたもの、二階の立上がりが高い町家風建築、土蔵、古びた小売店などで、いずれもその期間に多く建てられた町場の建物に当てはまるものだ。また印象的だったのが、小売店が古錆びた構えでありながら現役で商売されている点だ。多くの町では、複合商業施設などに集約され個別の店舗としては存在しがたいものである。扱う商品が細分化されてもまだ成立する都市部ならともかく、このような地方の小さな町でのこの姿は特筆に価するといってもよかろう。

 







訪問日:2015.05.01 TOP 町並INDEX