柳川の郷愁風景

福岡県柳川市【城下町】 地図
 
町並度 5 非俗化度 3 −城下町建設当時の掘割が縦横に巡る水郷−






沖端町の川下り乗船場付近 柳川を代表する風景だ 
 
 

 筑後柳川は水郷として観光客の訪れも絶えないことは説明するまでも無いことだろう。市街地を網の目状に巡る水路は極度な汚染で一時期埋立ての危機にも面したが、市民らの努力あって浄化され、城下町時代以降の水郷としての命脈を保ち続けている。
 この町が城下町として発展を始めたのは、関ヶ原の戦いを機に筑後32万石の大名として田中吉政が柳河城に居城したのがはじまりであったが、慶長14(1609)年に参勤交代の行脚中に不慮の死を遂げる。田中氏の時期は2代忠政で終了し、元々この地を拠り所としていた立花氏を元和7(1621)年に奥州棚倉より復封させている。それ以後明治維新まで一貫して立花氏による城下町として発展を続けていった。現在の柳川市役所付近、そして北側の京町通り界隈では、城下町を想起させる町名が入り混じり、この付近が町人街であった。江戸末期の資料では約1,400軒、約7,000人の人口を擁していた。
 城は明治5年に焼失し、また石垣もその後土木資材として使用されてしまったため遺構はほとんど残っていない。現在この町に見られる当時の面影は城下の商人町群と、藩主の別邸、掘割などである。掘割は城下町造成にあたって、非常に低湿で高水位の劣悪な土地を改良する目的で掘られたものであり、物資の運搬路として、また生活用水にも酒などを醸造するのにも使われた。
 家並や旧家という視点からすると、残念ながら余り連なって多く残っているという状態ではない。その中で柳川らしい町の風景が見られるのが旧城地の南西端付近、現在運河巡りの船の発着点となっている付近である。堀に沿って妻入り平入り混在の町家建築が散在している。堀端から少し入ったところには北原白秋の生家が海鼠壁を纏った漆喰の塗屋つくりで残る。また「御花」と呼ばれる旧立花氏の別邸は殿様屋敷といわれ、3代鑑虎が故郷・仙台藩の松島を模した庭園を造成したものである。この松涛園は松が280本も植えられているというほど広大なもので、大座敷からはその全体を見渡すことが出来るというスケールの大きなものである。また、隣接して残る洋館は明治末期に建てられたものである。
 また江曲地区には醸造家の裏手にレンガ造りの蔵が三棟並んだ風景が掘割に接して残り、風情ある水辺の景観が展開する。この付近、運河巡りの手漕ぎ舟が頻繁に往来し、水郷というにふさわしい情緒を感じさせる。
 





沖端町に残る北原白秋生家(もと造り酒屋) 柳川藩主の別邸・松涛園






三橋町江曲の町並 運河巡りの船のある風景(北長柄町付近)




三橋町江曲の水際風景 煉瓦蔵が並ぶ

訪問日:2008.08.16 TOP 町並INDEX