矢野の郷愁風景

広島市安芸区<商業町(在郷町)> 地図
 
町並度 4 非俗化度 10  −内陸各地の物資集散地 地場産業も発展した−
  




尾崎神社門前より連なる町並



 広島市域の南東端に位置する矢野地区は、中世には野間氏が居を構えた発喜城下の市町であり、また港町としても位置づけられ矢野浦と呼ばれていた。江戸初期には既に町場が発達し、庄屋や組頭なども置かれていた。元々は半農半漁の寒村ではあったが、酒造家や菜種油商、医師などもこの頃から現れている。また、東側の熊野・黒瀬などの内陸諸村からの街道がここに集まり、物資が集結する在郷商業町として商いをする者が江戸末期に向けて次第に増えていった。
 港としては大浜・大井の各港が漁船溜りや商船の寄港地として利用されたが、後に新田開発などによりその機能は衰退した。新田では専ら綿花が栽培され、菜種油が生産された。
 明治期になると牡蠣養殖、髢(かもじ)に産業の中心が移り、その頃からしばらくがこの町にとって一番活気に満ちていた頃であった。牡蠣養殖は今では広島湾の沖合いに後退しているが、古くは全国各地に知られるほど一大勢力を誇った。湯川英樹氏は、広島を訪れた際「牡蠣船の くれるまにまに 更くる夜を」という句を残したというが、この牡蠣船も当所の主観光産業であった。屋形船のようなもので、湾上をたゆたいながら牡蠣を賞味するというものであり、瀬戸内各地を中心に全国に営業に出向き、特に大坂で盛んだったという。現在は、町の海岸部は埋立てられ、工業団地となっているため想像も出来ないが、周辺はかきひび(竹の枝に牡蠣の幼生を植え付けて成長させる)が林立していた。 
 もう一つの産業・髦は和カツラのことで、江戸時代から続いたこの町の主要産業であり明治から戦前にかけて最盛期を迎えた。主に婦人頭髪用に用いられ、全国の8割を製造するに至った。
 これは頭髪の抜け毛を再利用したもので、人工原料を使わないリサイクル品であったわけだ。抜け毛を各家庭から集める「よせ屋」も存在し、よせ屋から集められた頭髪は、油抜き、漉き揃え、煮沸、着色、消毒、洗浄、乾燥の工程を踏んだ。今でも川岸には洗い場のあとが残っている。戦後しばらくして、洋カツラの普及に伴い急速に衰え幕を閉じている。
 町の中心近く、木々に被われた小高いところに尾崎神社がある。これは野間氏の入部とともに尾張国内海荘から文明2(1470)年に勧進された歴史の古い社で、この町の氏神として位置づけられている。ここから東側に伸びる道筋は、今でこそ人通りは少ないものの数十年前までは商店街があり銀行などの施設が集中し、かつての町の中心であった。そして、その通りの両側には袖壁を両端に従えた平入り・切妻の町家がある程度まとまって残っている。
 通りはやがて矢野川の細い流れに突き当たる。川に沿い熊野方面に向けて車の行き違いがようやく可能なほどの細い街路に沿い、ここにも密度は低いものの町家建築が幾分か残っている。その中で野島醤油商の建物は、間口の広い堂々としたたたずまいを残し、袖壁も厚く周囲の家並に対し威容を誇っているようである。さらに上流側に向けて、川の流れに沿いゆるやかに曲線を繰り返しながら、そして少しずつ登り勾配になりながら続く道筋に沿って、伝統的な造りの家屋が散見される。これがかつて内陸部とをつなげていた旧道なのであろう。
 近年になってバス通りが整備され、また大規模な住宅団地が造成され、この旧市街地は通過点にもならない。古い町並として保存するほどのではないが、個の邸宅では保存に値するものが幾つか残っている。しかしそれらもやがては一つ一つと失われていくに違いない。

 





野島醤油商(左)と付近の町並





TOP 町並INDEX