呼子の郷愁風景

佐賀県呼子町【港町・漁村】 地図
町並度 7 非俗化度 4 
−深い入江に抱かれた静かな港 唐津藩の庇護を得て急速に栄えた−

 


 朝市や烏賊で知られている呼子の港は可部島によって玄界灘から遮られ、また自身も深い入江の奥にあるため波が立たないといわれている。中世より色々な政治的・軍事的な動きのあった土地で、松浦党という一大勢力があり海賊のごとく各地さらには海外への進出も図り、倭寇として中国や朝鮮沿岸を襲ってもいる。時代は下って文禄・慶長の役の折には近くにある名護屋城がその舞台となったこともあり、港には軍船がひしめいたとも言われる。


鯨漁の網元・中尾家




朝市通りと呼ばれる商店街にも伝統的な建物が目立つ


 文禄の役で松浦党が没落するとこの地方は唐津城を構える寺沢氏の治めるところとなった。寛永14(1637)年の島原の乱の折には名護屋城も破却され、以後は軍事色を帯びることはなくなり唐津藩の港として発展していくこととなった。
 深く切れ込んだ入江は、特に東側で海産物を売る店などが目立ち賑やかである。観光客の訪れが絶えないが、港沿いの新しい道より一本山手には旧来のメイン・ストリートがあってここに長々と古い町並が展開していた。湾奥付近は商店街であり、また呼子朝市の開かれる界隈ともなる。商店の連なりがあるがほとんどの建物は伝統的なもので、切妻平入りの二階屋が連なっている。表通りに比べると観光客の姿もはるかに少なく静かで、港町の日常風景を見ることができる。
 商店街が途切れる辺りに一際目立つ商家風の建築がある。捕鯨で財力を積重ねた中尾家の住宅である。沖に浮ぶ小川島での捕鯨業は呼子の漁業を代表するものであり、この旧宅は他を圧倒する驚くべき間口を持ち、豪邸の名をほしいままにしている。藩より士分格を与えられていたそうで、網元として数十人の漁師を抱えていたという。江戸や大坂にもその名が聞こえていたほどだという。
 中尾家の付近から北側は素朴な港町・漁村の家並が続き、漆喰に塗り回された町家風建築が目立つ。海岸線に沿い造られカーブが続き、歩いていて次に現れる町並への期待を感じさせる。鄙びた漁村というより商業町という趣を感じさせるのは、漁業だけでなく海運業も盛んであったからだろう。実際江戸時代後期の記録では、呼子の所有していた船で最も多かったのは穀船であった。
 港には多数の烏賊釣り舟が停泊し、入江の対岸には旅館群が見える。名物朝市を見ることはできなかったが町並自体の魅力も、それら港町の風情によって高められていると感じた。
  




商店街を出外れると町家建築の連なる町並が残っていた




入江の対岸の旅館街の町並

訪問日:2008.08.15 TOP 町並INDEX