東富田町の郷愁風景

三重県四日市市【漁村地図
 町並度 6 非俗化度 8 −行商も盛んだった漁師町の町並−

    








路地に沿い高密度の家並が連なる東富田町 
 

 
四日市の市街中心から北に約5kmのところにある東富田町。現在は海岸線はやや遠ざかっているが、かつては伊勢湾に面する漁師町であった。
 藩政期には桑名藩領に属し、もともとは東海道沿いに家並が開け桑名宿と四日市宿間の町場として名物の焼蛤などが売られ、街道集落的なところであった。しかし安永9(1780)年の大火によって町場の多くが失われ、それを機に浜方と呼ばれた海岸部の浜洲や沼沢地などが整備され、新たな町が造られた。町の性格も漁村となり、特に幕末期頃から本格化した。明治に入ると水揚げされた魚介類やその加工品の行商が行われるようになり、特に明治20年に鰹節問屋が開業してからは紀州をはじめとして全国から鰹節を集荷のうえ、全国に売り歩いた。最盛期には行商を行う者が300人ほどに達したといい、富田行商人という言葉も響くほどだったという。
 大正中期以後、紡績工場が立地し商人の多くは工場勤務に転じ、また小売業の発達で生産地から直送することが基本となり、行商は次第に衰退した。
 漁業自体は江戸後期から通して盛んで、明治15年には漁家210、漁民1100人余りを数え、水産会社や海産物問屋も立地した。
 地内西部を国道1号が通っている。その東側一帯が大火後に整備されたという地区で、地図を見ても海岸に向って何本もの街路が計画されたさまが伺える。家並はそれに沿い整然と構えられ、その間に横路地もあるが通路状の細いものであるので、碁盤目状ではなく櫛の歯状の町割というべきだろう。そういう街区が200m×500mの範囲に展開している。
 家々は木質感が高く、1階部の荒い格子、2階部の木製欄干など特徴的な外観を持ち、密集度も高い箇所が多く歩き甲斐がある。面的に展開するため次の筋ではどんな家並が展開しているのかと期待感を抱かせるのもよい。国道に近いあたりに寺があり、この寺を中心に集落がまとまっている印象であった。
 歩いていると玄関脇にばったり床几のような木製の台が備えられている風景を多く目にした。これは地区の祭礼の折に使用されるもののようで、「祭礼委員」という札が表札横に見られるお宅もあった。
 

 














 

多くでは玄関横に木製の台が備えられていた 

 

訪問日:2020.07.18 TOP 町並INDEX