高田の郷愁風景

岐阜県養老町【在郷町】 地図
 
町並度 5 非俗化度 9 −濃尾平野縁端の町 川港を控え商業が発達−
 
 




高田の町並
 
 養老町は北東を大垣市、南側にかけては輪之内町、海津町などの低湿地帯に囲まれ、西側は養老山地に限られており、濃尾平野の西端に位置している。山裾に沿い国道と近鉄養老線が通じ、古い集落はこの滝線に沿い立地していったのだろうと思わせる。実際養老の滝は有名で観光客の訪れも多い。
 町域の代表的な町は旧高田(島田)村で、これは関ヶ原の合戦直後、美濃国の仕置を担当した代官衆の一人、間宮彦次郎より市場の制札を受けたことで本格的な賑わいを示すようになった。制札の条例には楽市・楽座の項も盛り込まれ、自由に商業を行える下地が築かれた。「嶋田町中」と呼ばれる町並を形成し、市も盛んに開かれるようになった。
 もともとこの地区は「九里半街道」の終点でもあり、ここから濃州三湊と呼ばれた揖斐川の支流・牧田川にある三つの港町を控えていた。九里半街道は中山道の今須宿(現関ヶ原町)から分岐していた枝道で、特に上方の物資を伊勢や名古屋城下、さらには江戸方面へ運ぶのに珍重された。荷物は大量輸送の可能な水運に委ねられることが多く、米原で一旦陸揚げされたものがここに運ばれ、再び舟運に委ねられていたのである。
 幕末頃になると上流からの土砂流入により港の機能が失われ、また大垣城下の船町湊の発展により衰微し、以降は在郷町としての賑わいを保っていた。 








 港の繁栄華やかりし頃は2・3・8・のつく日に市が開かれていたという町の中心は現在でも高田商店街として店舗が多く、郊外型の大型店舗に押されているのだろうが体裁は保っている。古い町並はこの商店街の一本道を中心に残っていた。灰または黒漆喰の塗屋造りで、切妻の両側には袖壁がある。煙抜きの越屋根が見事に残った間口の広い町家もあり、商業の繁栄を今に伝えている。江戸時代に遡るような古いものはないように見受けられたが二階の虫籠窓などもよく原型が保たれ、古い町並としての風情を感じることが出来る。
 裏通りには二階部分に手摺を設けた、旧遊郭を想起させる建物が幾分か残り、ここが付近の中心的な町であり、賑っていたことを証明しているようだった。
 地場の商店街の例に漏れず活気が今ひとつ乏しい。あちこちに残る古い町家を活性化対策として取り込んでみるのも一つの手だろう。ただ、これはともすると町並・町家の原型が失われ、素材を殺してしまうリスクが高い。ただ、古い町並として長らえるには、この方法しかないかもしれない。

 


裏路地には遊里を思わせる一角があった

訪問日:2007.10.14 TOP 町並INDEX