| 島根県吉田村<産業町> 地図 <雲南市> 町並度 5 非俗化度 6 −和鉄産業で栄えた名残が最も残る町− |
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| 菅谷地区 右は保存されるたたら製鉄の遺構「高殿」 | |
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| 菅谷地区の町並 | |
中国山地は古代より製鉄業の盛んであった地域である。特に島根県奥出雲地方はその中心であり、この吉田地区は全体が鉄の歴史村として見学施設や遺構が最も残っている。 当地の製鉄業は鑪(たたら)製鉄と呼ばれるもので、鉄分の多く崩壊しやすい風化花崗岩が多かったのと、畿内に比較的近いことも発達した理由だろう。また、原料の砂鉄を溶かすための良質の木炭が容易に手に入る環境であったことも幸いした。余談だが砂鉄の入手には、主にカンナ流しという方法が取られ、山肌を切り崩して川に流し、沈殿した砂鉄を採取するもので、川に流入する大量の土砂で宍道湖岸にあった商都平田市が斐伊川からの土砂堆積で内陸に追いやられ、平田船川という運河を開くことを余儀なくされ、斐伊川自身も天井川(周囲の平地よりも河床面が高い川)となった。いかに大量の土砂が切り崩されたかを物語る。 ここは松江藩の鉄師の筆頭であった田部家の所在地であり、室町時代に製鉄業をはじめてから日本一の山林王と呼ばれるほどの一大権力者であり続け、この地域の製鉄業の経営を司っていた。町並の西入口にある当家の土蔵群は相当なもので、建築された年代毎にその蔵には宝永蔵、文政蔵などと呼ばれている。 町並は坂に沿って展開している。この地方独特の石州瓦の赤茶色の鈍い光沢がこの町並の印象をより強いものにしている。そんな中に「鉄の歴史資料館」がある。これはもと田部家の侍医であった常松家で、内部では製鉄の工程、往時の鉄製品などが展示される。玄関先には「ヒ(ケラ)」とよばれる加工品になる前の窯出しされたままの鉄の塊が展示してある。このヒがその後鍛冶師の元にわたり、鉄製品になるわけであるが、当地では加工までは行わず、兵庫県三木、高知県土佐山田などに原料のまま出荷されていたようである。それにしても、鑪の操業は、炉の土台作りに数ヶ月を要し、炉は一回の使用で「ヒ」を取り出すときに壊してしまう。それに四日間不眠不休の作業で、一回の作業は「一代」と数えたと聞く。炎の熱と光で、「村下」と呼ばれる技師長クラスの指揮者は、代を重ねるにつれ目をやられ、盲目になった村下も多かったらしい。 その過酷な鑪製鉄の遺構が町の中心より3km離れた菅谷地区にある。実際製鉄が行われた建物「高殿」をはじめ、村下の住居跡など、製鉄華やかであった頃の面影を残している。製鉄に携わった人々が暮らす村は「山内(さんない)」と呼ばれ、菅谷はその山内の様子が最も残る地区であり、外すことのできない場所と言えるだろう。 |
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| 中心地区の坂の町並 | |
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| 田辺家の土蔵 | |
2025.05再訪問時撮影 旧ページ
| 訪問日:2002.09.15 2025.05.04再訪問 |
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