弓削の郷愁風景

岡山県久米南町<陣屋町・宿場町> 地図
 
町並度 4 非俗化度 10
 −南美作の政治経済の中心地であった−

弓削の町並は陣屋町より古い宿場町としての姿も残っています。突当りで右に折れ、さらにその先で直角に折れる街路は町場での視界の遮断を図り、宿場や街道沿いの町で見られるものです。
 

 美作国の南玄関にあたるこの地域は、古くより備前との往来が集中するところであった。慶長8(1603)年に森忠政が美作国主となって以降、国内の城と城下町を整備し統一した政治体制を完成させていった。当時既に旭川に沿った福渡とこの弓削は津山街道の宿場として公認されており、馬や人足が常備されていたという。
 元禄10(1697)年の森家退転後の弓削は幕府領となったが、その後甲斐甲府藩領などを経て宝暦13(1763)年からは下総国古河城主・土井大炊頭
(おおいのかみ)の領分となり、陣屋が築かれた。土井家は歴代に渡り幕府の要職を勤めた名門で、以降弓削はその重要度を高め、単なる街道筋の宿場町や在郷町のみならず、久米南条郡三十ヶ村を統治する政治経済の中心となった。大庄屋も置かれ、諸村のもめ事から年貢にいたるまで、全ての決定権は弓削にあったという。
 当時は自由に商売をすることは許されておらず、城下町や在郷町として指定されないと商工業は立地し得なかった。ここ弓削では陣屋町造成後商業が興り、元来宿場として人の往来が頻繁であったこともあり徐々に商業町としての形が整っていく。郷宿(村役人用の指定宿
)が出来、御用商人も指定される。津山城下という一大消費地を背景に仲買業者も発達した。煙草や綿花、米などの農作物が多く城下と取引され、中でも弓削焼酒の名は全国に名を知られる特産品として珍重された。明治維新までの約100年間、弓削は隆盛期を過した。
 国道の東側に残る津山街道は、2箇所で直角に街路が折れ曲がり旧道の面影を残していた。そして当時の町家がそこかしこに残り古い町並の姿を今に伝えていた。但し、中二階形式のものはわずかしかなく多くが明治以降の建築と見られ、切妻平入りが多いが両端に袖壁を従えた妻入り町家も眼についた。
 人の往来は近くを走る津山線や国道に移り、ここが政治経済の中心であったであろうことは、今ではこれらわずかに残る古い姿から想起できるに過ぎない。
 
 




 土塀に囲まれた屋敷型の旧家もあり政治の町らしい姿も残っています。 街道北部の町並




鍵曲り南側では町家がある程度集中して見られる一角があり往時の雰囲気を残しています。




名産品だった焼酒(焼酎)の看板が残る旧家がありました。


訪問日:2003.11.23 TOP 町並INDEX