弓削島(下弓削)の郷愁風景

愛媛県弓削村<漁村・港町> 地図 <上島町>
町並度 4 非俗化度 10 −中世「塩の荘園」として名高かった島−
 


 弓削島は瀬戸内海中部、愛媛県域にあるが北西側は広島県の因島がある。実際この島の商圏は因島市であり通勤者も多いと聞く。この海域は瀬戸内でもとりわけ島が多い地域で、島の名と位置を把握するのが難しい。
下弓削の町並




長い塀や門を構えた屋敷も眼につき、農村集落的な色も伺える。




路地風景
 

 弓削島は南北6km、東西は僅か2kmの細長い小さな島で、島の中心集落下弓削付近は陸地がくびれ、1kmにも満たないほどに狭まっている。平地がつながっていることから、二つの島の間に砂が堆積し、陸地化したものとも思われる。そのわずかに開けている平地に民家が密集していた。
 古い町並として見ると伝統的な建物はそれほど連続しては残っていない。島とは言え一つの自治体の中心集落であり、また平地であることから建替え更新も容易に進んでいったようだ。所々に残る古い様式の建物は、島の集落らしく板張りが基本で、時に2階部に桟を張出したものもありもしかすると置屋か料亭であったのかもしれない。平地といっても島のこと、狭いため密集し細い路地が支配しているが、周囲に塀を巡らした屋敷や、瓦を載せた門を構えた旧家などもあり、農村集落のような町並景観も一部で見られた。
 中世は弓削島荘と呼ばれた荘園が設置され、石清水八幡宮領となっていた。その後支配権が東寺に寄進され、以後200年余りに渡り東寺領の荘園として経過している。「塩の荘園」として知られた弓削は、年貢その他の課役は全て塩に代えられていたという。年に200俵を超えていたといわれるその年貢塩は、梶取と呼ばれる荘園の領主級農民の中から選ばれた操船技術者によって淀(現京都市伏見区)で荷揚げされ、東寺に運ばれるのが常であった。
 南北朝期になると戦乱の中海賊衆により荘園が侵略され、徐々に崩れていったものと思われる。江戸期になっても西廻り航路など大型往来の寄港地などにはならなかったようで、港町として大きな発展を示すまでには至らなかったようだ。
 
 
  
 

 



 


※後半3枚は2020年再訪問時撮影 
   

訪問日:2005.03.27
2020.08.09再訪問
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