大長の郷愁風景

広島県豊町<農村集落> 地図 <呉市>
 
町並度 5 非俗化度 8  蜜柑船もある島の農村






大長は島にありながら農村集落らしい家並、塀を巡らせた家々も見られる。

 温州蜜柑の県内有数の産地である豊町の中でも、大長は1つのブランドとも言うべきものとなっている。収穫期には夫婦で選別作業を行っている風景に出会う。家族単位といっても、この集落ほとんどが蜜柑農家であり、港に停泊している小型船は漁船でなく近くの島の蜜柑畑に出かけるためのものであるというから驚きである。
 大長は中世には大条と呼ばれ伊予国に属しており、大三島神社の所領となっていた。後に竹原小早川氏が統治するようになって安芸国に編入されている。
 本土から橋によって陸続きとなっていない離島であるが、先に触れたようにほぼ町の生計は農業によって支えられている。「芸藩通史」によっても、漁業は「農間余業」とされていたことが記され、それも内海漁業や牡蠣打ちなどの小規模なものであった。平地の少なく水の得にくい地形であり、田畑には不向きであったため、桃などの果樹栽培が盛んだったが、いつの頃からか蜜柑農業が本格化した。
 近くには古くからの港町である御手洗があり、港的な役割もそちらに託してこの町は島の農村として純粋に機能してきた。昭和2年には我国初の蜜柑缶詰工場が設立し、イギリスや北アメリカに輸出されている。
 町の風景も漁村の雰囲気はない。気のせいか集落内も潮の香りがしない。私は二度訪ねたがいずれも蜜柑の収穫時期だったこともあり、代りに蜜柑の匂いが支配していた。入母屋の家々が目立つ点からも農村集落らしい外見を持っている。但し、狭い平地に密集した集落形態のため、細い路地が秩序なく巡る点は漁村に通じる。乗用車は容易に入りこめない。自家用車もほとんどが軽トラックで、斜面の蜜柑畑に通うためのものなのだろう。
 御手洗と同様、洋館調の建物が幾つか見られることも特記される。昭和初期から戦後しばらくまでに建てられたものが多く古い町並というわけではないようだが長屋門風の屋敷を構えた「蜜柑御殿」も見られた。
 




入母屋の見応えある民家も多く残っている。 港に浮ぶのは近隣の島の蜜柑畑に通う「農船」。岸辺には古びた
雁木が残っていた。




路地風景。洋館風の建物も散見された。

※画像は全て2005年11月再訪問時撮影のものです。


訪問日:2001.10.14
(2005.11.13再取材)
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