七日町界隈の郷愁風景

福島県会津若松市<城下町> 地図
 
町並度 6 非俗化 4 −戦火に耐え復興した明治期の町並−








 七日町の町並 七日町通は商家の他洋風の建物も多く残る



 若松(会津若松)の歴史についてはここで詳しく書く積りはないが概略だけは記しておきたい。天正19(1591)年に蒲生氏が若松城に入城したことから城下町としての歴史が始まる。江戸初期から商業が自由に発展できる制度があり、周りを険しい山々に囲まれた独立国家ともいえる会津にあって、その中心である若松では、城下町の特権も活かし商業活動を欲しいままに行える素地があった。
七日町の町並




中町の町並


 城の南は黒川が流れ自然の要害をなしていて、北及び西に4km四方の広がりを形成した若松の町場は、武家屋敷を囲むように商人・町人が集積し、一大国家とも言える商業社会をなしていた。幕末の戊辰戦争による壊滅的な町の破壊に遭っても、商人たちは自力で町を再生し、町役人や株仲間がその指揮を執った。盆地一帯で生産される米をはじめ酒、漆器や陶磁器などが売り出され、塩や肥料、牛馬などが若松で購入された。明治期以降も若松県の首都、そしてその後も福島県会津地方の中心として発展を続けてきた。

 ここではかつての若松城(鶴ヶ城)の西側にある七日町とその周辺を紹介する。城下の町人町の中心を担っていた地区で、多くの街道が交差し戊辰戦争以前から商家も数多く建ち並んでいた。会津一の商業町、繁華街としての古い歴史を持ち、また文化の中心としての役割も大きく、江戸も後期になると歌舞伎や人形浄瑠璃の上演が許されたこともあり、人形座がここに設置されていた。
 只見線の七日町駅の東から国道118号線にぶつかる辺りの1km余りには、店蔵や町家などいたるところに伝統的な建築物が見られ、古い町並としての体裁を残していた。中でも特記すべきは明治期以後になって建てられた洋風建築が数多く残っていることで、ここは維新後しばらくの間、町の中心であったことを想像させてくれる。
 地元ではまちなみ協議会を立ち上げ、この七日町通から野口英世青春通りにかけて、伝統的建物を観光資源として地道に活動されているようである。一部では観光客に対応した店舗なども見られるが、素材が良いので気になるほどではない。
 郊外の温泉地、東山温泉や芦ノ牧温泉に宿泊し、一連の会津若松観光の中にこの界隈の町並探訪を組み入れるのも、なかなか味わい深いものになろう。

 

訪問日:2005.05.20
2015.10.21再取材
TOP 町並INDEX


旧ページ