筑後大川の郷愁風景

福岡県大川市<港町・産業都市> 地図
 町並度 6 非俗化度 6 −筑後川河口近い水運の拠点に産業も集積した−


 

小保の町並 右は吉原家(重文)  




小保の町並
 大川市は筑後川下流域に属し、全般に低平な土地で占められている。かつては国鉄佐賀線の駅が設けられていたが廃線となり、市域には鉄道は通っていない。筑後川を渡る昇降式の鉄橋が保存されていて、名所となっている。
 古くは三潴(みずま)荘という荘園に属していたというこの地は、元和7(1621)より久留米藩有馬氏と柳川藩立花氏の両方の支配に属している。境界は町の中心を分断し、久留米藩側の榎津地区と柳川藩側の小保地区は「御堺江湖」という掘割で仕切られていた。今でも町を縦横に巡るクリークにその面影を感じさせ、浄福寺門前には境界石が今でも残る。
 
 
  かつての藩境に設置されていた境界石
 

 

榎津の町並 左・中村家 右:高橋家 
 
 

 榎津と小保はいずれも筑後川の河口に臨む水運の要衝で、榎津はもともと小城下町であったが、18世紀初頭に若津港が開かれてから港町としての発展を見る。また小保地区も佐賀藩領への渡船場があり宿場的な意味合いを持っていた。商家、問屋が集積し、遊郭も存在していたという。そしてこの港町は、最盛期には筑後の産物の積出し、長崎蔵所に送られた天領日田の公米を川運から海運に切り替えた港でもあり、大阪商船、沖縄海運などの大型船も出入りしていたという。
 当地の産業に木工業がある。榎津の久米之助が家臣数名に大工職を学ばせたのが始まりといわれる。当初は船大工が主であったが、のちに指物と呼ばれる家具製造が盛んになり、明治に入ると1000人を超える木工業従事者を有し、榎津指物の名は全国に知られた。今町を歩いても木材を扱う町工場が目に入り、それらの佇まいもこの町の印象を一層濃くしてくれる。
 かつての市街では細い路地、そして水路が入組んでおり、その姿は柳川・久留米藩時代と大きく変わっていないものと思われた。そん中に多くの商家・町家建築が新しい建物に混在しながらも見られ、文化財に指定されているものや公開されているものも少なくない。榎津地区の高橋家は酢醸造で栄えた豪商で代表的な商家と言える。小保地区の吉原家は町を管理する立場にあり、中庭を有する屋敷型の邸宅で公開されていた。
 町の中心には町の歴史や見どころを写真付きで紹介している小さな施設もあり、前回訪ねた時にはないもので訪問者を意識されている様子がうかがえたが、近くにあった古びた商家建築は取り壊されてしまったようだ。
          
2021.01再訪問時撮影   旧ページ
訪問日:2003.03.23
2021.01.04再訪問
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